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電車の中のできごと

きのう電車にのっていたら
突然くいくいとコートをひっぱられた。

ふりかえると、
席に座ったおばあさんが

「あなた、これだめよ」

といってわたしのコートの裾をつまんでいた。

「これ、しつけ糸ついたままじゃない。
しつけ糸はね、死人に着せる服に
つけたままにするものよ。
生きてる人はね、だめなの。
ほらだからこれ、今とってあげたいの」

うながされるまま
空いていたおばあさんの横の席に座って
自分のコートのお尻の方をひっぱってみた。
たしかに切れ目のところに
白い糸がバッテンに縫いつけられたままだった。
ぼーっと生きてるせいかこんなことばっかりだ。
白い服はすぐに汚れるし
改札はだいたい残金不足で通れないし
この間だってイヤホンを拾ってもらったし。

「ありがとうございます。
これから友だちの家にいくので
あとではさみを借りて切ります」というと
おばあさんが
「はさみなら私もってるのよ」と、
黒いこぶりのバッグの中から
ケース付きのはさみを取り出した。

「いいから、ちょっと後ろむいてみて」

言われるままに立ち上がり、
おばあさんに背中を向けると
むかいの座席の人たちと目が合う。
しんとした電車の中で繰り広げられるできごとに
皆興味をいだいているようだったけれど
どうやらたいしたことではないらしいと分かると
一斉にスマホに視線を戻す。

「ほら、これでいいわ、ねえ」

白い糸をつまみながら、おばあさんが笑う。
ご親切にありがとうございます、
教えてもらえてありがたかったですということを
伝えると

「ほんとはね、ちょっと迷ったのよ。
今って他人にそうそう話しかけないでしょう。
前までわたしもこんなことできなかったんだけど
いまはもうおばさんだから、
こういうときは、言っちゃうの。
おせっかいで、ごめんね」

電車を降りるとき、もう一度
ありがとうございます、と声をかけたら
小さく手をふってくれた。
それが思った以上に
親しみのこもったふり方だったから
あ、泣くかも、と思って
ちょっと呼吸を整えて
それからいそいで改札に向かった。



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