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女の子の救世主を喪った、渇いた夏のはじまりに(真友ジーン.そして、真友ちゃんへ)

四半世紀前のモノクロの光景

シンガーソングライターの尾崎豊が26歳で命を絶った当時、その参列者で護国寺界隈は埋め尽くされた。護国寺を起点にサンシャインシティから江戸川橋を超える3.5キロの長蛇の列。1992年4月30日、最終的に4万人近くがその死を偲んだ、まだ肌寒い雨降る日のことだ。

かき分けねばすすめない大勢の人たちの脇をたまたま車で通りすぎたわたしの母は、なにごとかと驚き初めて「オザキユタカ」を知ったという。ロンドンから東京に戻って半年ばかり。知らなかったとしても致し方あるまい。その後、幼いわたしが存分に彼の音楽を聴くことになることは言わずもがなだが。

その1年後の1993年に生を受けたシンガーソングライター「真友ジーン.」とは2013年、VOGUEgirlのファッションブロガー “同期” として知り合った。その年の夏が始まろうと、まさにしていた頃だった。

あれからまだ5年近くしか経っていない。そのうだる夏の暑い日に、珍しく高熱をだして会社を休んでいたわたしは朦朧とした意識のなかで彼女の訃報を耳にした。

それは虚しいほどに、寝耳に水だった。

そして頭痛の残る頭でとても追いつかない事実に気にもとめずに、日暮れの気配もみせない金曜のロンドンは週末へと勇み足をつづけていた。

すっからかんに晴れつづけるこの街にとって “まるで何事もなかったように” ではなく文字通り “本当に何事もない” 日常そのものだった。その事実が友人一人の死を偲ぶにあまりに残酷で、虚しくて悔しくてベッドの中で声を出してわたしは泣いた。

そしてオンラインに寄せられた数多の言葉たちはどういうわけか、四半世紀前、当時母が観たというモノクロの光景を想像させた。

月並みを月並みとして書くこと

人間は、予想をしていなかったことにとても弱い。その命題が真であることをとうのむかしに知りながら、予想に反すたび愚かなほどその “予想” が所詮わたしたちの希望的観測でしかなかったことを思い知る。

そんなんだから、希望的観測から漏れた結果に、わたしたちはこれ以上なく月並みなリアクションをする術しかもちあわせない。きっと、なんて推測をする必要もないほどに、また、この文章も月並みなはずだ。

若者の死という “漏れた結果” に、月並みな言葉しかでてこないという文句さえ月並みで、わたしは言の葉の当てはまる先がどこにもないようなやりきれない気持ちにさせられる。

記事にしてくれないだろうか

よしんば、日本時間早朝6時に突然話を持ちかけてくれた知人にわたしはふたつ返事で答えた。あの子がのように慕っていた知人からだった。

いくつかの理由のひとつは、月並みを月並みとして覚悟をもって綴ることがこの状況に向き合うただひとつの最適解であってほしいと願ったこと。

加えて前述の母にならうとしたら、これまでの多くの音楽がそうであったように彼女の歌声は一人歩きをして知らないどこかで知らない誰かに知られる。“彼女の歌を知って欲しい” その主目的を果たすうえで、わたしにできる最善の選択だと判断せずにはいられなかった。

断っておくが、若くして才能あるシンガーソングライターが亡くなるプロットは約10年前に映画になったことが記憶に新しい。誤解を恐れず書くのなら、腹を括って「フリー」という責任を飲みこんだ彼女から生まれた曲たちは、誰からの欲望も届かない場所で純真無垢なまま一人ずつに届いて欲しいと願う。

真友は常々、「人にはそれぞれ得意なものがあり、みんなが得意なことを活かして、みんなが幸せになれる世の中がいい」と言っていました。

だから私が歌うことで、誰かが幸せな気持ちになってくれると信じていると。

あまりにも短い生涯でしたが、真友から発信された言葉や感情、歌うことがそれぞれの人たちのもとへ届いていってくれたと信じたいと思います。

(真友ジーン.ミュージアムより)

買わなかった1枚のCD

屈託のない笑顔を向ける彼女は、わたしたちにとっては太陽のようで、女の子の救世主のような女の子だった。打算的なことがなくて、取り繕うことができなくて、子どものようで危なっかしいのに、歌い出すとそこは彼女だけの “色気” で埋まる

出会ったばかりのわたしに彼女はただただ眩しくて、暗がりのライブハウスでの彼女すら眩しかったことを、今もありありと思いだす。いつだっただろう、渋谷のフレンチ・ロジウラ近くのあのライブハウスでのことだ。慣れない場所にひとりで足を運び、ひどく彼女のパフォーマンスに感動したわたしはその晩、余韻に酔いたいといい三部作CDのうち2枚を買った。

なぜもう1枚買わなかったかというと、ちょうど売り切れていたとかあるいはわたしのキャッシュのあり合わせがなかったかとか、そんな他愛もない理由だった気がする。中途半端な買い方をしたわたしに彼女は笑いながら「じゃあ今度ですね!」といつもと変わらない眩しい笑顔を向けて、サインペンで「碧さんへ」と丁寧にサインをしてくれたんだった。ネオンと騒音まぶしいセンター街を縫うようにして、わたしは足早に帰路についたと思う。

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かなしい夜は、あかるいうたを歌って明かす

海を超えた遠いこの都市にいると尚更、この事実が冗談に思えて仕方ない。

音楽一本でやっていくつもりです!髪の毛もピンクになっちゃったりして(笑)」とメッセンジャーに残るやりとりを振り返れば、またピンクのロングヘアを振り乱してステージ袖から笑顔で登場してくれそうな気さえする。

でも。どうしたって近く遠いどこかの地点で、わたしたちは彼女の身体的な別離を受け入れないといけない。そして、彼女の半分(それ以上)が残されているということとも向き合わないといけない気がする。

2015年のクリスマスライブのラストでの彼女の言葉をかりたい。彼女はまるで、わたしたちにどうすべきかを暗に示しているようだからだ。

まずは明日もまた、同じ時間に起きて、朝を始めること。

加えて、フラワーマーケットに誘ってくれたフラットメイトには申し訳ないけれど、わたしは明日日曜礼拝へ行って彼女のために祈る。今秋に渡仏する彼女の親友とは、好きだったコーヒーと甘いお菓子を囲んでパリで歌をきこうと話をした。冬には「ポインセチア」をかざろうと思うし、実はもうこの文章を書くあいまに熱々の「ココア」を2杯いれたんだ。いつもと比べてとびきり甘いやつを、だ。

そうやって明後日もその次も「それでも朝は来るからやってくる」から「イヤホンから流れる」あの子の歌を流す。そうやって、脆いわたしたちは同じように仕事にでかけて毎日を過ごす。時折、彼女の歌をひっぱりだして、もう老いることのない彼女の声に耳を澄ます。

なぜって「あかるいうた」はこんな歌い出しで始まるから。かなしい夜は、あかるいうたを歌って明かすの、と。

そうやって彼女は、悲しみにひたる隙をわたしたちに与えてくれないのかもしれないと想う。

もちろんそこにすら、愚かなわたしたちは月並みすぎる希望的観測をこめてしまうんだ。そんなことも知っている。

だって、そうじゃなかったらどうやってこの “漏れた結果” に折り合いをつければいい?

二〇一七年六月三十日
がらんどうとしたパディントンのビル街, ロンドン
碧 拝

真友ジーン.ミュージアム
追悼です
真友ジーン.(Twitter Search)

※ 記事中の写真は2014年に東日本大震災のチャリティーのため訪れた気仙沼で撮影されたものです
※ この記事はBLANCARTEより転載しております。元記事はこちら

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