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空は鼠色、恋は桃色。あるいは、じぶんの “好き” がだれかの「それ」だった場合

二巡目だ。サクッと書きます。

【其ノ1】「ひたすら柔らかく、時々ピリッとトゲもあることば」で、まずは倫敦余談便りを(2018/04/18)


“クラス格差のないディストピア” という名の憩いの場

考えすぎると書くことへの足枷になるので一旦置いておくとして、お二人はSNSの目的意識や解釈についてどう思う?(東京都・おゆさん)

最近持っているSNSに対する印象はこれ(見出し)かな?人類総編集者(発信)時代と言われて久しいけれど、SNSはあくまで万人が憩う場だと思っている。オフラインでありとあらゆる格差を超えて生きている私たちがスーッと同じ平面上に居合わせるような。

ただSNSには決定的な弱点があって、それは五感を網羅できていないこと

視覚と聴覚しか受け渡していないじゃない?だから心理的距離の寂しさを払拭できても、触ったり、嗅いだり、味わったり、という物理的距離の孕む部分には未だ到達せず。それが、今のわたしにとって、そこはかとなくもどかしい。

では、なぜ発信を続けるかというと、そうはいっても5分の2の感覚は満たしてくれるから。物理的な距離というハンディキャップがあるうえで40%を満たせることは、近くにいる時には感じることができなかったほどに憩う意義を痛感するわけです。60%はいつかな?と思いながらね。


好きな曲?

私からは、好きな曲は?という質問を。
個人的には、曲や本って自分の心理状態と結びついていると思っているので、二人の回答が楽しみです。
(東京都・おゆさん)

ハリー細野こと細野晴臣さん。彼を挙げてしまうと唯一無二の「彼」を回答したと同時に、わたしはそれ以外あらかたの音を包括して肯定することができる気すらする。振り返ってみると、これまでの人生で好きだったものを掘り下げていった先でぶつかった人が細野さんだから、彼が始点だったりハブとして出来上がった「音」が日本にはあまりにも多いのかもしれない。あるいは大瀧詠一さん。2013年12月30日の彼の訃報を耳にして以来、彼の名前は挙げなくなってしまったのだけれども。

世界に影響を与えているのに、尊厳とか偉大さを一切見せないどころか年々軽くなっていく細野さんの洒脱さは羨望の対象であるし、それは江戸の最強(だと思っている、若冲と拮抗するほどに!)絵師・海北友松の晩年の作風に通ずるんだよね。ピカソもそうだ。

なにより細野さんは、詞先に偏っていたわたしに音の魅力を教えてくれた人。だから「曲は?」と聞かれたらいつも細野さんを挙げるようにしています。

とはいえ歌詞もすべて折紙付だからタチが悪い

想い出はモノクローム 色を点けてくれ
もう一度そばに来て はなやいで
美しの Color Girl
(君は天然色 / 大瀧詠一)
お前の中で雨が降れば
僕は傘を閉じて濡れていけるかな
雨の香り この黴のくさみ
空は鼠色 恋は桃色
(恋は桃色 / 細野晴臣)

さて、回答したところで、わたくしひとつ思っていることがあって。


ふと思うんだけど “好き” ってだれのもの?

ロラン・バルトの『恋愛のディスクール』を触りだけ読み散らかして渡英してしまったせいで、有耶無耶してるのかも。深夜のラジオパーソナリティは「恋」は語っても、恋を取っ払った “好き” を直接語る人はいないでしょう?「恋」は “好き” の一部分であって、“好き” はもっとずっと厄介な奴だと思ってる。

大方肯定的な感情として受け止められる言葉だけれども、“好き” だけど苦しかったりもするし、好きすぎてアーティストを殺してしまうファンもいる以上、 “好き” と幸せは必ずしも等式で結べるものじゃないのかもって。

それにね、昨今は “好き” の所在が迷子になってない?とも感じてる。一次情報の濃度が薄いSNSの怖いところはそこにあるとも思ってる。それもずっと、無意識のうちに、切り・張り・合わせた誰かの “好き” を自分のそれと誤認してしまうという虚しい事象

だからわたしは、なんぴとにおいても「その好きは一体全体 “あなたの好き” ?」と聞くことが多い。もしもそれがきちんと “あなたの好き” であった瞬間、わたしはその “好き” を初めて認識して受容できる気がしてる。


なーんて取るに足らないことをかんがえてしまうのだけれど、それにしたって “好き” にシビアって、なんだか随分ときちんと生きている気がしない?あはは



生まれてみたかった時代は、いつ?

私からも・・・<もし自分が違う時代に生きているとしてどの時代がいい?>(東京都・wakaba.worldさん)

ジョージ・オーウェルの描くディストピア、いいな〜みたかった!舞台、好き。もっと言うと舞台袖が、好き。このあいだ舞台の時(学生時代に舞台制作をしてました)の友人カップルが劇場でプロポーズしてたの、最高にきゅんとしたよ。

さて、生まれたかった時代、石器時代!戦国時代!など回答はあるものの(なにも石器時代に生まれたいわけではない)、それ以上に「環境」に関する回答になるかな、と。「北斎のアシスタントしたい」とか「お立ち台立ちたい」といった具合に、場所・人・地位、といった要素が絡んだ「環境」(ちなみに、北斎のアシスタントにも、お立ち台にたつこともしたいわけではない)。

とすると、わたしの場合1920年代後半@できればパリ。できれば日本人でいたいけれど、うーん、でもできれば戦争は避けたい。エコールドパリの時代を味わってみたいけれど、でも藤田嗣治のような数奇な生き方をするのは怖いなあ。

もしくは『君は天然色』を幼いときに聴いていたいと考えるなら、1981年以降の東京ってことになるかな?あ、でも1960年代に遡ってBuffalo Springfieldを聴くのもありだね。そしたら大瀧さんとも友人になれていたのかも?ただ、リアルタイムで聴くためにはレコードを手にできるだけの階級家庭あるいはアメリカ人でないといけないのだけれども。

あ、でも『Magic in the moonlight』の1920年代南仏になら今すぐにでも飛び込みたい!


毎日を過ごすなかで、時間飛行を感じることってある?

わたしからの質問はこれ。「へ?」って思うかもしれないけれど。

ロンドンに来てから映画や舞台の世界へ行くことが好きだったわたしに「時差」というこれまでとは違ったオプションが加わったの。それがとても面白い感覚で、自分の世界をぐわっと広げてくれた気がする。

誰かを想うとき、連絡するときに、自分のスマホが示す時間ではない時間を生きる人が同じ星に生存してるってなんだかすごくロマンチックでわくわくしない?


こちらに来てから早いもので3週目。

生活が日常になってきて、それに伴ってもどかしさも増える一方。降っては何事もなかったように鼠色の空のまま粛々と営みをつづけるロンドンの街にいることは、それだけ自分の小ささを感じるに足る環境だって思います。


かしこ

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