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13年がたって

こんばんは。今日は書かなきゃいけない気がするので書きます。

13年が経過しました。何から、というのはもはや書かなくてもわかると思います。当時小学5年生だった私は、学年末の短縮授業だったため、自宅のリビングでテレビを見ようとしていました。そこから先のことは、きっといろいろな人たちがそれぞれの立場でたくさん書いているはずですから、私があえて語るものはありません。

以前にも書いた気がしますが、私は、自分のことを被災者ではなく罹災者であると認識しています。確かに私は震災当時福島県にいて、小学6年生の運動会や鼓笛パレードなどは中止になりました。放射線被ばくのチェックのためにガラスバッチをつけて行動記録をつけたりもしました。でも、その程度で済んでいるんです。母方の親戚たちのように避難せざるを得なかったわけでもなく、高校の英語の先生のように津波被害に遭ったわけでもありません。そういう人たちと同等の言葉でまとめられるのは、何かが違うような気がしているのです。

そして、これと同じくらい、「復興」という言葉で何を目指していくのか、自分で分からなくなってきたという自覚があるんです。おそらく今防災教育を受ける子供たちの中に、少なからず震災の記憶がない子供、震災後に生まれた子供が出てきています。そんな中で、言葉の定義から考えられる戻るべき震災前を知らない子供と、私自身も理解できていない復興のゴールを、どう考えればいいのだろう、と。

4歳下の妹は、地域のレッテルがある中で人々がそこにとどまる、残らざるを得ない、出ていく、出ていかざるを得ないといったことをなぜ選んだのか、といった部分に関心を持っていると言っていました。背景となる学問分野は違えど、姉妹それぞれ震災を取り巻く人や場所に関心はあるようです。

そんななかで、4月から教員として、防災教育やら復興教育やらにも携わることになります。それは、自分にとって「未来の日本を担う」と教育の立場から次世代を支えることが密接に結びついているからであって、震災後多くのスピーチで語られた言葉に触発されて考えてきたことでもありました。

つらつらと書いてきた、自分の中にあるいろいろな疑問を一人で解決することはもう諦めました。生徒たちと時間をかけて考えても、きっと納得のいく答えは出ないんだと思います。それでも、やらねばならない。だからこその立場かもしれません。私の罹災者としての役割は、たぶんそうやって震災と地域に関わる諸々の事象や言葉たちを、教員として生徒たちと考え続けることなのだと思っています。

多くの人が自衛手段としての「防災」を語る中で、自分は何を書いているんだろう。そういうちょっとした罪悪感もあるのですが、私の場合はそれよりもこの言葉、小さな小さな決意表明のほうがこの日に書くのにふさわしいと思いました。これは、私が前を向くための言葉です。

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