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東北震災から11年。

僕が宮城県石巻市と初めて出会ったのは高校2年生の夏。
あの夏は本当に暑かった。

厳密に、僕が石巻市という地域を知ったのは中学3年生の卒業式の日。
嫌いだった学ランを家に帰るや脱ぎ捨て、来る高校生活に向けて課題をせっせこと行っていた。

その時、ゆらーりゆらーりと振れ幅の大きな横揺れがゆっくり長く。
急いで階下の台所に行き、テレビをつけると地獄絵図。

そうは言っても遠く東北地方の話。
石巻なんていうところに友人も親戚もいない。

高校生活に胸躍る中学三年生にはどこか遠くの話のように感じていた。
残酷な話かもしれないが、それが人間というものだ。

見ず知らずの他人の死や困難に一々悲しむことができるほど、人間のキャパシティは大きくない。
わずか15歳のガキなら尚更だ。

しかし、そんな僕が石巻と出会ってしまう。
それが高校二年生の夏だった。

部活メイトというだけで、大して仲も良くなかった永尾という人物に誘われたボランティア委員会。

半ば教師から押し付けられる形で委員長になってしまった彼であるが、任せられた事は無理をしてでもするタチだった。
ここのとこは今もそう変わらない。

「東北に行けばいいんじゃない?」
部活の帰り道、適当に言った僕の発言がまさか実現するとは思っていなかった。

金の無い高校生には飛行機や新幹線は使えない。
夜行バスで向かい、安めのホテルに宿泊するというカツカツの行程だった。

僕はバスに弱い。
12時間にわたるバス内移動は僕を衰弱させるのに十分すぎる時間だった。
正直帰りたかった。

しかし、その帰りたいという気持ちは石巻に着くとさらに助長される。

眼前に広がる更地。被災地。
まるで、数百年前から、何もない原っぱであったかのようだった。
しかし、足元に目を落とすと、確かに人間の営みの跡があった。

風雨によって色あせた写真。
ばらばらになった陶器。
子どものおもちゃ。
流されてきた車。

手を合わせるのも億劫になるほどだった。
もう一度言おう。僕は帰りたかった。
多分二度と来ないだろうと予見した。

しかし、この旅の中で唯一、心が熱くなるような体験があった。

夜、石巻市でがんばっている事業者の集会があったのだ。
僕らもそこに参加した。

1時間程度の会合の後、牛タンでBBQ。
牛タンは好物であったが、食欲はない。当たり前だ。
若いんだから食えというおっさんにタッパー山盛りで渡された牛タン。
何かのハラスメントで訴えてやろうかと思った。

帰り道、終日、案内していただいたKさんがホテルまで送ってくれた。
Kさんは完全に酔っている。
酔っている中なので、訳のわからないことも口走るものだ。

「あの灯りが何かわかるか。」
川の対岸を指さしながらKさんは興奮気味に言う。
灯りは灯りだと思ったが、もちろん喉で止めた。
「あの灯りはな、人間の輝きなんだ。」
永尾も僕も????って感じだったと思う。

と言うより、おそらくKさんは酔っていて、自分でも何を言っているかわからなかったのではないだろうか。
本当にその言葉には意味がなかったのかもしれない。

だけれども、僕はその言葉を今でも覚えており、そして僕はそれから幾度も「人間の輝き」というものに出会っていくことになる。
いや、僕は「人間の輝き」に出会うために石巻に何度も行ったのかもしれない。

それから図らずとも何度か石巻に足を運んだ。
10回以上からはもう数えていない。

そこで出会った人々。
僕と同じような高校生もいた。

良い人ばかりというわけではなかったが、地獄のような状況から、何とか前を見ないといけないという意思を持った人ばかりだった。

その中で、僕は初めてあの言葉の意味を知った。
人間の輝きとは則ちこれであると。
そして僕もいつか、こんな輝きを持った人間になりたいと思ってしまった。

その思いは遂に今の今まで叶っていない。
基本的に僕は弱い人間であるし、ピンチには順当に押しつぶされそうになる。
石巻で見た、あの灯り。そしてあの輝きはまだ自分の中では光っていない。

そして、無論のことであるが、3月11日になって黙禱したり、思いを馳せるほどのキャパシティも未だ持ち合わせていない。
既に11年前。
11年前の他人事に涙を流せるほど良いやつでもなかった。

しかし、僕は知り合っている。
石巻で出会ったというだけの友人達。
なんとかしていこうと立ち上がっていた大人達。

僕は顔の知る彼ら彼女らにならば思いを馳せることはできる。
しかし、それは毎日のようにだ。
3月11日だけが特別というわけではない。

「共感」というのはまったくもってそれで良いのだ。

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