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Mer.avr.17  

美術史学の展開

美術史学が方法論として成立していく過程についてのメモ。
これが何の役に立つかはわからないけれど、まぁ、Life is そんなもん。ちなみに最近おいしかったのは、ギンザワッフルのキャラメルサンド。結構甘い。


まず、ヨーロッパの地図を広げて、目線は少し北へ。美術史学の成立を語る舞台は、当時の先進地域、ドイツ。1870年代というと、ビスマルクの頃。ドイツはかなり勢いがあった頃と言える。
初めて美術史学の正規の教授(正教授とは別)が就任したのが、ドイツのゲッティンゲン大学だったという。1873年のウィーン国際学会開催時には専門の美術史学者はかなりの数にあった。しかしその参加者のほとんどは、地元のウィーン大学教授を除き、美術学校や工業専門学校の教授、美術館関係者であり、大御所的な主要教授は欠席。専門の美術史学者とは、重鎮たちの後継的な存在だ。純粋な(というと語弊がありそうだけど、)美術史学者はこの国際学会に参加していない。
簡単に言うと、美術史学者のなかに、派閥が二つあったのだ。とりあえず便宜上、新派と旧派と名前を付けておく。きっとそれぞれにきちんとしたラベルがあるのだろうが、今はこれでいい。長ったらしい名前で説明していたら、文字数がかさむし、わたしが覚えられない。
国際学会に参加したのが、新派。欠席したのが旧派だ。わかりやすいね。

ホルバイン論争

新派と旧派の対立構図として、非常に見やすいのがホルバイン論争だ。レポートで書いたらどやされるぐらい簡単に説明する。

あるAっていう超有名でまじレジェンドな絵がありました。Aはまじ美がカンストしてて、ホルバインさんの絵だって長らく思われてた。んだけど、Bって絵が出てきて、「え、Bがホルバインじゃね?Aパチモンじゃね?」ってなった。結論、Bが本物。

で、Bが本物って言ってるのが新派。Aが本物って言ってるのが旧派。はいちょーわかりやすい。天才。

ここではっきり理解しておきたいのが、
新派が重要視していたのは、旧派の重んじる絵画の文学的で、感傷的な美の理解ではなく、その絵の真贋と来歴であった点だ。

先のプリマヴェーラでは、修辞学上の美と、図上の上での美は、ぴったりと重なっていた。これらの伝統的な絵画の描写形態を鑑みた時、旧派の文献から得られた言葉によるロマンティックな印象批評は、文化という面で水源を共にしているように思う。
それら保守的なアカデミズムに、Something newを提示する一つの支流。新派が規約としているのは、実証主義と自立性の美だ。これはアートワールドの住人達の視線から、一般鑑賞者、そして作品自体を自由にすることが部分的に可能になった契機の一つと言えるのではないだろうか。ふむ。まぁ次にあげる3人の論と、その影響を見てからでもこの問いを考えるのは遅くはないだろうからいったん保留しましょう。


ここから彼らの方法論が体系化されていくのであるが、そこに3人の功労者が挙げられている。リーグル、ヴェルフリン、パフノフスキー。

あ、あと10分で自習時間が終わる。今日はこれで終わり。




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