「表現の不自由」と、新たな現代的不自由さの出自について
今日の朝のニュース番組は、ルーキーイヤーながら47年ぶりかつ海外での女子ゴルフメジャーを制した渋野日向子のニュースと、あいちトリエンナーレで中止となった企画展『表現の不自由・その後』の話でいっぱいである、どの局も。
一時はパブ戦やら日本社会人やらGDOアマやらアマチュアゴルフ大会に出ていたこともあり、渋野選手の話についても書きたいところだが、今日は『表現の不自由・その後』展について書こうと思う。
少なくない人がそう思ってるかもしれないが、この『表現の不自由・その後』展は、今回の「中止」によってその展示が”完成”されたようにも思う。
もともとこの展覧会は、以下のように公式サイトにもあるように、
「表現の不自由展」は、日本における「言論と表現の自由」が脅かされているのではないかという強い危機意識から、組織的検閲や忖度によって表現の機会を奪われてしまった作品を集め、2015年に開催された展覧会。「慰安婦」問題、天皇と戦争、植民地支配、憲法9条、政権批判など、近年公共の文化施設で「タブー」とされがちなテーマの作品が、当時いかにして「排除」されたのか、実際に展示不許可になった理由とともに展示した。今回は、「表現の不自由展」で扱った作品の「その後」に加え、2015年以降、新たに公立美術館などで展示不許可になった作品を、同様に不許可になった理由とともに展示する。
なんらかの理由によって展示ができなくなった”作品”を集めたものとして始まった経緯がある。そして今回は”展示会”そのものが、というわけであり、象徴的な出来事ではないかと思う。
今回のことの発端は、慰安婦問題の象徴とされる少女像だ。折しも史上最悪と言われている日韓関係。もともとこの少女像は慰安婦問題とは別の、米軍の戦車に轢き殺された女子中学生の像という説もあったが、これすら真実かどうかは怪しいと言われており、”芸術”作品を巡って解釈のソースとなる文脈そのものがあやふやな状態である。ただ、この作品の作者自体が、反米運動及び反日運動の両方に参加しているという話もあるので、実際のところは慰安婦と米軍戦車に轢き殺された女子中学生の両方を表してると考えられなくもないが。
さて、ここで書きたいポイントはそこではない。「表現の不自由」について、だ。
上に挙げたように、公式サイトではその”不自由”について、
組織的検閲や忖度によって表現の機会を奪われてしまった
としている。つまりは国・政府、政治家などによって表現が封じられるという”不自由”さを指している。おそらくこうした活動は第二次世界大戦以前の治安維持法(1921年)下において進められた表現の自由の制限の反省として以降続くものであろう。そして今回も政府や自治体への忖度によって中止を余儀なくされたと見れば、同様だと考えられるかもしれない。しかし今回起きた“表現の不自由”は、本当に国や政府によって制限されてしまったものなのだろうか?
連日日韓問題を報道してきたメディア。
その渦中に“たまたま”行われた展覧会での“展示物”が、日韓問題の文脈で取り上げられる。
メディアが報じた文脈下でソーシャルメディアで話題になる。
メディア及びソーシャルメディアにおける話題に注目した自治体の長が現地を訪れる。
メディアにおける報道がより過熱する。
ソーシャルメディアにおいて展覧会と展示物がますます注目される。
政府関係者のコメント。
展覧会の事務局へクレームや脅迫が届く。
安全の確保のために中止という決定。
という流れを見るに、何らかの権力がそれだけでこの展覧会を中止=表現を不自由にしたというようには考えられない。
むしろ“表現の不自由”を生じさせているのは、この話題に乗ってしまった我々自身の側にあるのではないだろうか?
そもそもこの展覧会自体は、表現の自由について考えさせるというものだったに違いない。展示物はそもそも政治的な背景以外のものももあったわけで、展覧会そのものがある政治的偏向へと誘導するものではなかっただろうと思う。しかし我々自身が、ここしばらくメディアによって形成されてきた文脈の中で、この展覧会と特定の展示物へのある“解釈”をしやすい状況にあったのではないか。そしてそれはソーシャルメディアという、同質性の高い人々が繋がりやすい環境下で拡がっていく。
・メディアの報道による文脈の形成
・ソーシャルメディアという装置による拡散
・同質な意見を持つ人たちを集めやすいソーシャルメディアの集団凝集性
・メディアの再報道による話題化促進
といった要素の組み合わせが不自由さを作っているんではないか。国や政府・自治体といったなんらかの“権力”が表現を封じるのではなく、“表現の不自由”な環境を、メディアと我々自身が文脈形成している。
それを結果として、それを“世論”として国・政府・自治体が拾い上げてるのだとすれば、“表現の不自由”を生み出しているのは我々自身だと言うことになるだろう。
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