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ナポレオンと闘った女性、スタール夫人

4月22日は、フランスのロマン派小説家、スタール夫人こと、アンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ド・スタールが生まれた日。(1766年4月22日 - 1817年7月14日)父は、スイスの政治家・財政家ジャック・ネッケル。思想の違いから、あのナポレオンと生涯対立する。

フランスにおける初期のロマン派作家として政治思想、文芸評論などを行った。フェミニズムの先駆者でもある。



皆様、いつもありがとうございます✨
グリーンビューティ®研究家の青木恵と申します。

ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。
聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。

先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。


【生い立ち】

スイスの政治家・財政家ジャック・ネッケルの娘として、パリで生まれる。幼くして両親に連れられて、百科全書派の哲学者や文学者の集うサロンに足を運び、彼らから、その才能ぶりを絶賛される。


【マリー・アントワネットの助命懇願】

フランス革命時は積極的に参加、外国大使の妻という身分を活かし、革命が過激になる中、生命の危険にさらされた友人たちの身の安全の確保にも努めた。やがて、フランス革命が彼女の考えた穏健で平和的な立憲君主主義とは程遠く過激になっていくのを憂い、マリー・アントワネットの助命を懇願する論文も書いた。


【文壇デビュー】

1788年に書いた『ルソーの性格および著作についての手紙』で文壇に認められた。

1795年、『小説論』を発表する。これは、ドイツの文豪ゲーテから絶賛され、ゲーテ自らドイツ語訳を行った。次いで発表した『個人と国民に及ぼす情熱の影響について』(1796年)は、モラリスト的な立場から書かれた熱情と愛について描かれた。


【ナポレオンとの戦い】

1800年に発表した『文学論』では、文学者の反専制的使命と文学者の自由を強調し、ナポレオンの不興を買う。さらに、1801年にナポレオンがローマ教皇とコンコルダートを結んでカトリックと和解すると、カトリックの迷信性などを論った小説『デルフィーヌ』(1802年)を出版、ナポレオンは激怒し、ついに彼女はパリから追放される。


【スタール夫人の由来】

1786年にパリに住むスウェーデン大使のスタール=ホルシュタイン男爵と結婚、しかし2年後には別居状態になる。

1799年に正式に離婚し、男爵は1802年に死去している。

ちなみにタレーランをフランスの政界に売り込んだのも、当時愛人であった彼女であった。


【諸外国で反ナポレオン体制をつくる】

その後、スタール夫人はドイツに旅行、フランクフルト、ヴァイマル、ベルリンなどを訪問する。イタリアへと旅立った。その後、コペでサロンでの活動に熱中し、多くの人と批評を行った。この頃、イタリアの天才的女性詩人コリンヌの運命を綴った小説『コリンヌまたはイタリア』(1805年)を発表する。さらに、ドイツ・オーストリアへと旅立つ。この旅で、彼女は周辺諸国の反ナポレオンの人々を味方につけることになる。


【パリへの出禁、書籍の発禁】

この2回のドイツ旅行と家庭教師に雇ったアウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲルの援助の下、ドイツ人の民族性とロマン主義とを綴った『ドイツ論』出版のため、パリに戻ったもののフランスの自文化中心主義を批判しドイツ文化の重要性を説いたことでナポレオンの怒りを買い、発禁の処分が出る。彼女は危険人物と目され、監視の下に置かれる。

1812年に20歳以上年下の士官アルバート・デ・ロッカと再婚、オーストリア、ロシア、スウェーデン、イギリスへと赴き、1813年にイギリスで『ドイツ論』を発刊する。


【ナポレオン体制の崩壊と共に】

1814年にナポレオン体制が崩壊し、パリに舞い戻ったもののすでに彼女の人気は衰え、昔のような勢いは無くなっていた。


【晩年】

晩年にはアヘンを常用するようになり、ほどなく脳出血で倒れ、半身不随になり、1817年にバリでその闘いに満ちた生涯を閉じた。享年51歳。


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