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命を描く魔法使いーアンナ・マリア・メーリアンー

4月2日は、ドイツ生まれのアンナ・マリア・ジビーラ・メーリアンが生まれた日。

(1647年4月2日 - 1717年1月13日)

植物や昆虫などを詳細に描いたイラストで知られる画家で、自然科学者でもある。

ナチュラリスト、昆虫学者、植物イラストレーターであり、史上最高の植物アーティストと言われる。

当時、昆虫は、泥から生まれる悪魔の動物という悪評を受けていた。マリアの功績は、その昆虫の生態に着目し、186種の昆虫のライフサイクルを記録し、図解した彼女の業績は革新的だった。


芸術家としての名声に加え、蝶や蛾の変態を緻密な観察眼と描写力で描いた彼女は、昆虫学に多大な貢献をもたらした人物として高く評価されている。また彼女は、その業績をほぼ独力で成し遂げた点から、自立した女性の代表例とみなされることもある。2人の娘も画家である。

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グリーンビューティ®研究家の青木恵と申します。

ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。
聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。

先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。

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【生い立ち】

ドイツのフランクフルトでスイス系の家系に生まれる。父は版画工であり「メーリアン出版社」を経営、そして、オランダ人であった彼女の母(ヨハンナ・ハイム・マレル)は、1651年に静物画家のジェイコブ・マレルと再婚した。マリアは、この義父の導きにより絵画に興味を覚えた。

その義父のジェイコブ・マレルは、早期から、マリアの才能に気付き、線画や銅版画、水彩、油彩の技法を指導した。

【きっかけ】

その頃、マリアの家族の友人がフランクフルトに所有していた養蚕場で蚕蛾を見る機会があり、蛾は卵から生まれ、幼虫が蛹になってから生まれることに気づき、蚕蛾の誕生と変態の真相をつきとめた。-マリアの著書「スリナム産昆虫変態図譜」より

【生涯】

1665年、マリアは義父の徒弟だったヨハン・アンドレアス・グラフと結婚し、2年後には最初の娘を授かり、ニュルンベルクに移り住んだ。

その地でも彼女は、羊皮紙と亜麻布に描いた絵の作成や、刺繍用図案の作成を続けた。それらは評判を呼び、多くの生徒に教えるなどで生計を助け、また、それは、彼女の知名度を押し上げた。

裕福な階級とも交流が生まれ、マリアは彼らの美しい庭園を見る機会が増えていった。訪問した庭園で、マリアは昆虫、特にイモムシと蝶のライフサイクル観察を始めた。

【スケッチブックの発刊】

1675年、マリア28歳の時にこの最初のスケッチブックが「Neues Blumenbuch」第1巻として発売された。

1679年、「ヨーロッパ産鱗翅類‐その変態と食草」が、発売された。

【環境の変化】

義父が亡くなり、母も亡くなり、マリアは娘とアムステルダムに移った。そこでは、絵画の教え子を集め、自らも絵を描き続けた。マリアの挿画はアムステルダムの自然科学者やコレクターなどから注目されていく。

1692年、夫ヨハン・アンドレアス・グラフと離婚。旧姓に戻ったが、公言せず未亡人と言うことで通した。

【スリナムへ】

1699年、スリナム(スリナム共和国)に到着し、首都パラマリボに住んだ。

現地のインディオたちは、その協力を惜しまなかった。他の先住民との交渉や、植物や昆虫の探査に都合がよかったため、アフリカ人奴隷とインディオの女性を助手として雇っていた。

マリアは、熱帯雨林の気候をものともせず植民地周辺の固有動植物をスケッチしてまわっては、それらの名称や土地での用いられ方などの詳細を記録した。その過程で、オランダ人農場経営者たちが土地の人々を酷使する様を目の当たりにし、これを強く批判もしている。

1701年、マリアはマラリアに感染し、オランダへ帰国せざるを得なくなった。

1705年にはスリナムの昆虫類についての手彩色銅版画集「スリナム産昆虫変態図譜」を出版した。

1717年、脳梗塞を患い闘病の末、永眠。


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