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アメリカの女優、ジェーン・マンスフィールド

4月19日は、アメリカの女優、ジェーン・マンスフィールド(1933年4月19日 - 1967年6月29日)が生まれた日。

ジェーンはプラチナブロンドの髪、ウェストが細くくびれた肉体、露出した胸の谷間といった、当時マリリン・モンローと並んだセックスシンボルであった。スリーサイズは、102-53-89cmと驚異の体型であった。


一説によれば彼女のIQは、163。5カ国語を話し、熟達したクラシック音楽のピアニストであり、ヴァイオリニストでもあったにもかかわらず、宣伝のために、故意か?事故的か?乳房をポロリと出す当時のお騒がせ女優だった。

シアター・ワールド賞 (Theatre World Award)、ゴールデングローブ賞、全米制作者協会 (PGA) 賞ゴールデン・ローレルを受賞している。



皆様、いつもありがとうございます✨
グリーンビューティ®研究家の青木恵と申します。

ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。
聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。

先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。


【生い立ち】

ペンシルベニア州ブリンモア出身。ジェーンは、ドイツ人とイングランド人を祖先に持ち、弁護士であった父ハーバート・ウィリアムと母ヴェラの間に一人娘として生まれた。

幼年期は、ニュージャージー州フィリップスバーグで過ごす。彼女が3歳の時、父ハーバートは、妻と娘を乗せて車を運転中に心筋梗塞で亡くなった。夫の死後、母親は教師として働いた。

1939年に母ヴェラは再婚し、一家はテキサス州ダラスに移り住んだ。ジェーンは若い頃から女優になりたいという強い願望を持っていた。ハイスクール卒業後、彼女は南メソジスト大学で演劇と物理学を学んだ。


【最初の結婚と学業の両立】

1950年、ジェーンはポール・マンスフィールドと結婚し、ジェーン・マンスフィールドとなった。1950年11月8日に17歳で最初の子供ジェーン・マリー・マンスフィールド を出産し、勉強熱心なジェーンは、学業と育児を両立させ、さらに、映画監督シドニー・ルメットの父親で、ダラス演劇芸術研究所の創設者、俳優バルーク・ルメット の生徒となり、1953年彼女はアーサー・ミラーの『セールスマンの死』で初舞台を踏んだ。

ジェーンは映画館のキャンディ売りなど、様々なアルバイトの傍ら、UCLAで演劇を学び、研鑽を積む。


【女優デビュー】

彼女のスクリーンデビューは、ワーナー・ブラザース映画での端役であった。映画スタジオのタレントスカウトの1人が、由緒ある劇場、パサデナ・プレイハウスに出演していたジェーンに着目し、彼女と契約を結んだ。

初の主演映画は、フランク・タシュリン監督のキャンプ・コメディ映画『女はそれを我慢できない (The Girl Can't Help It) 』(1956年公開) だった。これは、元大物ギャングがスターとして売り出そうと目論む、素晴らしく官能的だが致命的に音痴なガールフレンドという役であった。

1957年の映画『気まぐれバス (The Wayward Bus) 』で美しいが頭の弱いブロンドの女を演じ、1957年のゴールデングローブ賞有望若手女優賞をキャロル・ベイカー、ナタリー・ウッドを抑え獲得した。


【私生活】

ジェーンは3回結婚し、2回離婚し、5人の子供がいた。パリのレストラン、トゥール・ダルジャンのオーナー、クロード・テライユ 、ロバート・ケネディ、ジョン・F・ケネディなどたも浮名を流した。


【早すぎる死】

1667年、仕事の後、ジェーン、恋人のサム・ブロディ、運転手のロニー・ハリソン、そしてマンスフィールドの子供たちとビュイック・エレクトラ225でニューオーリンズへ向かう途中、

ハイウェイ、ルート90で走行中、突然減速した大型トレーラーの後部に彼らの車は激突した。前部座席に乗っていた3人は即死、後部座席に座っていた子供たちは軽傷。享年34歳。

彼女はペンアーガイル南東のフェアビュー・セメタリーに眠っている。彼女の墓碑には「We Live to Love You More Each Day」と書かれている。

彼女の死後、全米高速道路交通安全委員会 (NHTSA) は全ての大型トレーラーの下部にガード(鋼の管でできた強固なバー)を取り付けるよう法整備され、マンスフィールド・バーと名付けられた。


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