昭和を代表する女優、田中絹代
11月29日は、昭和を代表する女優、田中絹代が生まれた日。ベルリン国際映画祭女優賞受賞、勲三等瑞宝章受賞他多数受賞。
『サンダカン八番娼館望郷』『楢山節考』など。
(1909年11月29日-1977年3月21日)
山口県下関市関後地村出身(現在の下関市丸山町)出身。
父・久米吉と母・ヤスの四男四女の末娘として生まれる。
元々は裕福な家庭だったが、久米吉が病死したため、次第に困窮。
幼い頃から琵琶を習っていた絹代は筑前琵琶の宮崎錦城に弟子入りし、1919年に免許を受けて田中錦華の名を貰うが、小学校で女性教師と諍いを起こして自主退学する。
翌1920年、錦城が組織した琵琶少女歌劇に加わり、楽天地の舞台に立つ。
が、楽天地にある映画館に出入りし、栗島すみ子主演の『虞美人草』に感激し、映画女優を志す。絹代を琵琶の師匠にと考えていた母に猛反対されるが、1923年に歌劇団が解散したこともあり、保太郎の説得で女優になることを許可された。
1924年7月、兄が松竹大阪支社で給仕係として働いていた関係で面接を行い、8月に松竹下加茂撮影所へ入社、母と2人で京都に移住した。
14歳で野村芳亭監督の時代劇『元禄女』で映画デビュー。同作では「犬の腰元」役を演じたが、主演の柳さく子と姿恰好が似ていたため、同時に彼女の後姿の代役もこなした。続いて同年公開の清水宏監督『村の牧場』では早くも主役に抜擢された。
「田中は身長が150cmしかなく、絶世の美女でもありません。しかし、必死に役を学び、誰にもまねできない和服の裾さばきと手さばきを身につけました。また、男性のように振る舞うのではなく、男性を尊重しながら女性の良さを表現することを実践した、昭和を代表する女優でした」と評されている。
映画評論家の西村雄一郎は、「シナリオに書いてある役柄を、その根本まで理解しひたむきに演じた。さらに熟考して新たな意見を出すため、巨匠たちにとって想像以上の効果を出してくれる得難い女優だったのです」と後に語っている。
死ぬ間際まで「目が見えなくなっても、寝たきりでも演じられる役があるだろうか。」と言っていたそう。
「私は映画と結婚しました」と度々語っていた絹代は、晩年は下関を大変懐かしみ、「私が死んだら骨は下関のお墓に入れて欲しい」という言葉を残している。
1977年、脳腫瘍の悪化により死去。享年67歳。
現在、下関市の中央霊園には絹代の墓があり、毎年、命日の3月21日には『花嵐忌(からんき)』と名付けられた市民墓参が行われています。
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