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ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ〜ナポレオンを皇帝に導いた勝利の女神〜

皆様、いつもありがとうございます✨グリーンビューティ®専門家の青木恵と申します。

ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。

先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。火曜日・木曜日にまとめて投稿しています。該当する偉人がいない場合はお休みです。

長文につき、時間があるとき、興味がある方をご覧くださいね。

楽しんでいただけたら、嬉しいです。


6月23日は、フランス皇后、ナポレオン・ボナパルトの最初の妻、ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネが生まれた日。(1763年6月23日 - 1814年5月29日)

Joséphine de Beauharnais、1763年6月23日 - 1814年5月29日

フランス領西インド諸島マルティニーク島トロワ・ジレ出身。

貴族であった祖父の代から島に住んでいたが、生活は困窮。

が、ある日占星術師に「最初の結婚は不幸になるが、そのあとで女王以上の存在になる」といわれる。

一緒になった男性は幸運に恵まれ、別れた男性はツキに見放されるという不思議な運の持ち主でもあった。

16歳の時にアレクサンドル・ド・ボアルネ子爵と結婚。

一男ウジェーヌ、一女オルタンスをなしたが、当初から夫婦仲が悪く、4年後の1783年に離婚した。

ボアルネ子爵は、フランス革命中にギロチンで処刑されてしまう。

離婚後、付き合ったのは、ルイ=ラザール・オッシュ将軍。別れた5年後に戦地で病没。

その後に付き合ったポール・バラス総裁の愛人となり、「陽気な未亡人」と呼ばれ、社交界の花形となった。

が、ボールは飽きるとジョセフィーヌをナポレオンに押し付けるように。バラスはその後、国外追放の憂き目に。

6歳年下のナポレオンの熱烈な求婚を受け結婚。ジョセフィーヌ32歳。生活の安定のためだった。

快進撃を続けるナポレオン軍の兵士からジョゼフィーヌは「勝利の女神」と呼ばれるようになり、験のいい存在としてあがめられるように。

1804年、ついにナポレオンは「フランス人の皇帝陛下」として即位。ジョゼフィーヌにも「フランス人の皇后陛下」の称号が与えられた。

その6年後、嫡子が生まれないことを理由にジョゼフィーヌと離婚。

ハプスブルク家の皇女マリー・ルイーズと再婚。マリーとの間にナポレオン2世(ローマ王)をもうける。

が、ジョセフィーヌと離婚後のナポレオンはつきものが落ちたかのように失敗、敗退の連続、そして退位。

離婚後のジョセフィーヌもすっかり気落ちし、病弱になり、肺炎により死去。享年51歳。

最後の言葉は「ボナパルト、ローマ王、エルバ島…」だった。

その11年後、ナポレオンが追放先のセントヘレナ島で死去した際の最期の言葉は「フランス、陸軍、陸軍総帥、ジョゼフィーヌ…」だった。享年52歳。

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