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娘を愛するが故に亡くなったプリンセス

4月25日は、ヴィクトリア女王の娘(次女)、王女アリス・モード・メアリーが生まれた日。(1843年4月25日 - 1878年12月14日)

ヘッセン大公(今はドイツに統合されている)ルートヴィヒ4世妃。

アリスは、福祉や医療に尽力したともいわれている。彼女は、ナイチンゲールの弟子の一人で、ヘッセンの福祉、医療改革などにも貢献。宗教にも造詣が深かった。



皆様、いつもありがとうございます✨
グリーンビューティ®研究家の青木恵と申します。

ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。
聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。

先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。


【生い立ち】

1843年にバッキンガム宮殿で誕生。

ちょうど2年後、ヴィクトリア女王夫妻は家族で自由に過ごせるプライベートな場所を求め、気候もよく自然豊かなワイト島も気に入っていたことから私費で購入。その宮殿、オズボーン・ハウスで、アリスは、野菜を採ったり、料理をしたりして、心豊かな少女時代を過ごした。

ヴィクトリア女王は、1850年、西アフリカ部族の姫であったアイナを娘同然に可愛がり、他の王女、王子たちとも仲良くさせた。アイナは、生贄として殺される直前、イギリスの軍人により救出され、ヴィクトリア女王に引き合わせられた。非常に賢い少女だったそう。この女性がのちにアフリカの若き王女サラ・フォーブス・ボネッタとなった。


【王女の結婚】

17歳で、ヘッセン大公国、大公̪子と婚約。翌年、父君のアルバート公が腸チフスに倒れ、アリスは献身的に父君のベッドに寄り添った。アリスは、父君を亡くした半年後に、喪も明けていない中、ヘッセン大公国に嫁いだ。その時の結婚式にアイナを結婚式に招待するほど2人は仲が良かった。そしてその友情は生涯を通して続いた。

ヴィクトリア女王は「かわいそうなアリス、お通夜のような結婚式になって」と不憫がった。


【悲劇の始まり】

夫との間に7人の子供をもうけたが、ヴィクトリア女王から遺伝した血友病遺伝子を持っており、次男はそれが原因で早世。彼女の悲劇はこれだけではなかった。


【母の愛】

子どもたちが当時流行していたジフテリアに、次々感染。特に末娘のマリーは、姉たちが回復するのとは裏腹に、病状が悪くなる一方だった。アリス自身も身体が弱く感染すると命を落とす危険が高いため、娘のマリーに近づくことができなかった。マリーは高熱とジフテリア特有の症状であった喉の腫れによって、呼吸困難に苦しみ、こう言った。

「ママはどうして遠くにいるの。どうして近づいて抱きしめてくれないの。どうしてキスしてくれないの」と。

アリスは居ても立っても居られなくなり、娘のマリーに近づいた。制止しようとする側近を振り払い、マリーを優しく抱きしめて、そして何度も何度もキスをした。

が、マリーは回復することなく、1878年の11月、わずか四歳で亡くなった。その翌月には、アリスも亡くなった。奇しくも亡くなった12月14日は、父君であったアルバート公の命日だった。享年35歳。

娘を想うアリスの命がけの愛は世界中の人々の心を打ったそう。


【子孫】

長女ヴィクトリア・アルベルタ(ミルフォード=ヘイヴン侯爵夫人、1863年 - 1950年)はスウェーデン国王グスタフ6世アドルフ妃ルイーズおよびルイス・マウントバッテンの母であり、エリザベス2世の夫エディンバラ公フィリップの祖母に当たる。

長男エルンスト・ルートヴィヒ(1868年 - 1937年)はヘッセン大公になり、次女エリーザベトはロシアの皇族セルゲイ大公妃エリザヴェータ・フョードロヴナ(1864年 - 1918年)に、四女アリックス(1872年 - 1918年)はロシア皇帝ニコライ2世の皇后アレクサンドラとなった。


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