C20 -弦-

「どこで生きるべき時間を間違えたんだろうな?」

ドラムのカンジが言った。
奴が持ってきた極上のネパール産という触れ込みの葉は、いつもの粗悪品とちっとも変わらなかった。相変わらず面白みも何もない。脳みその後ろがずり落ちていく不愉快な感覚だけがある。

「高校でもっと勉強しておけば良かったのにな、あんた、それなりにいい学校だったんだろ?」

俺は吐き捨てるように言ったつもりだったが、アルコールとマリワナの粘っこい引力に囚われて半分ぐらい呂律がまわらず、まるで焚き火を囲んで熱心に東洋の精神について議論するヒッピーのようになっただけだった。

「そういうことじゃない。この間違った時間はいつから始まったんだろうな、ということだよ」

と言ってカンジは煙を空中に吐き出した。
またこれだ。俺はうんざりして、カンジから手巻のマリワナを奪い取った。
奴が雄弁になるのは、俺と二人でいる時だけだ。それ以外の場所では滅多に口を開くことがなく、同じバンドの他のメンバーが話しかけてもロクに返事すらしない。

「情報の奔出が始まったのはいつか、と考えるとどうなるだろう?」

こういう時のカンジが言うことは全く意味が通らなかった。「きっかけを失った時間軸」だの「時間的非対称性の破れ」だのといった、どこかで聞きかじった神秘ワードを散りばめた質問を俺に投げかけて、俺がなんとか話を理解しようと四苦八苦している様を眺めるのだ。
正直なところ、これの何が楽しいのか俺にはさっぱりわからなかった。

「見当もつかないな」

俺は自分が吐き出した煙がゆっくりと薄汚い家のキッチンに流れ込むのを目で追った。

「90年代の半ばだ。そこから間違った時間が始まった。とはいえ、厳密にそれがいつだったか、ということに大した意味はないのかもしれない」

「何がだ?21世紀にプログレッシブ・ロックシーンが残っていないことを嘆いてんのか?」

苛立ちがカンジに伝わるように、俺はわざと違う話をした。

「プログレは死んじゃいないさ。誰も聴かなくなっただけだ。」

そりゃ死んでんだろ、と俺は思ったが、同時にこの中年ドラマーが最後に20分間におよぶドラムソロを叩いたのはいつだったかを思い出して嫌な気分になった。悪いことに、それは俺が舞台袖でカンジの演奏を初めて見た日のはずだった。

「俺達の話をしてるんだぞ?俺とお前。俺達は時間軸の漂流者なんだ」

「知ってるよ」

俺は諦めて、根本に近くなった煙草をカンジに手渡した。いつもこれだ。奴に言わせると、これが奴が俺とだけ口をきく理由なのだそうだ。

カンジによると、俺達は知らない間に本来生きるべき時間を踏み外した。94年だったか95年だったか知らないし興味もないが、別の世界が俺達が元いた世界に異常に接近した時があって、俺達は何かの拍子に気付かないまま、するっと今の世界に来ちまったらしい。つまり俺達はこの世界の元々の住人ではない、だからずっと違和感を感じている、だそうだ。

「自分の幼い時の記憶が、他の同世代の人間と食い違うことはないか?」

最初に出会った日。ライブの打ち上げで、思いつめた様子のカンジから、最初にそう言われた時は正直反応に困った。音楽的には大先輩にあたる寡黙な凄腕ドラマーが真顔で「俺達は違う世界から来たのだ」なんていうあきらかに精神病の妄想を語って、その同意を求めてきたんだから。
生来、人当たりだけは良い俺はその時もなんとか調子を合わせた。そういやとんねるずは紅鯨団じゃない違う番組をやっていたような気がするし、さまーずが有名になったのはもっと早かったような気がする、云々。

その時のカンジは、長い旅を終えてようやく故郷に帰った旅人のような顔をしていた。そうだろ、そうだろ、何度も頷いて、少し涙ぐんでるような気配すらあった。

俺はすぐに後悔した。これは明らかに同意してはダメなやつだった。俺は精神科医じゃないから、妄想を抱いた人間に対する適切な対処方なんてものは知らないが、少なくともその時に、カンジにとって俺が「広い世界のただ一人の同胞」になってしまったことは間違いなかったからだ。

実際、カンジはその後も事あるごとに俺と会いたがったし、わりと有名な本格プログレバンドのドラムのポジションを捨てて、全く無名の俺がいたバンドに合流すると言い出した。

それから二年もこの妙な縁は続いている。今では自分がリーダーをやってるバンドで奴がドラムを叩いている有様だ。
バンドのメンバー集めで一番困るのが上手いドラマーを探すことで、どんなジャンルでも大抵は完璧にこなせる腕前を持つカンジがドラマーとして参加してくれることは有難い、というか、俺たちのような売れないポストロックのバンドにとっては、カンジの複雑なドラミングを軸に曲を作れることは、この上ない幸運であり、いてくれないと困るというのが実情だが、毎回この妄想に付き合わされるのはさすがに辟易する。

「早く鍵を見つけないとな。あまり時間はないぞ。どんどん元いた世界の記憶が失われていく。今にあれはただの夢だったと思うようになる」

深く息を吐き出しながら、カンジは姿勢を崩して、床に寝そべった。

「ああ、わかってるよ」

こうなると、もうすぐこの憂鬱な禅問答も終わりだ。じきに鼾が聞こえてくるだろう。
俺は、散乱するビールの空き缶をゴミ袋に放り込みはじめることにした。

カンジはずっと、元いた世界に帰るには「鍵」が必要で、それは音で出来ているらしい、と言い続けていた。
スタジオやライブハウスで、カンジはあらゆるリズムを試していく。正確無比なビートを刻みながら、複数の単純なリズムを組み合わせ、タイミングを少しずつずらしていく。リズムはゆるやかに変化し、複雑化し、最後には音のうねりに変わっていく。

その鬼気迫る様子を見た客は、好きになるかは別として、例外なく感嘆の息をもらす。が、俺だけは知っている。その時カンジは「鍵」を探しているのだ。無限に近いリズムとテンポからニつの世界を貫通する、ただ一つの音の配列を探しているのだ。ただ必死に。

一方、俺は「鍵」を探そうとは思っていない。あくまで、それは作曲における観念論だと思うことにしている。実際、曲を作って様々なリフを試していると、夢を見ているようになって、何か違う世界の記憶が流れこんでくるような感覚を覚える時がある。
だから、違う世界の「鍵」は音で出来てる、というカンジの言葉は考え方としては真実なんだろう。ただ、俺達をこの不遇な境遇から救うのは、「鍵」ではなく音楽で稼いだ「金」だ。そして、それは俺達にとって、もっとも縁遠いものだった。

まったく、冴えない話だ。孤独と不遇でおかしくなっちまったおっさんと、介護よろしくその妄想話に付き合う才能のないギタリストが、一緒にやっているポストロック。売れるわけがない。

カンジの妄想話も売れなさすぎて現実を見たくなくなった音楽中年が陥りそうな境地じゃないか。それも典型的な。

ビール缶を集め終えた俺は、煙草に火をつける。これだけ煙が充満すると火災報知機が鳴り出すかもしれないと思う。

暗い話の最後にちょっと笑える話をしよう。俺は夢の中で、何かを思い出すことがある。例えば中学生の頃、とんねるずとさまーずが出ていた「七時のとんねる男爵」という番組が好きだったこと、とか。その番組は屋外に大きなセットがあって、芸人が体を張った無茶なお笑いをやるんだが、駆け出しのさまーずがその番組で成功のきっかけをつかんだこと、とか。

本当はそんな番組はない。図書館で昔の新聞のTV欄を調べたことさえあるから確かだ。あくまで、これは夢の中で思い出した話なんだ。

なかなか笑えるので、カンジが別の世界の話をしてきた時も、俺はこの夢の話をした。

カンジはその番組が下品すぎて嫌いだったそうだ。