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猫は東へ

年老いたハルは毎日、お気に入りのソファで寝てばかりいて、自然と夢の話をするようになった。

猫缶を開けて、中身をスプーンでほぐしていると、それを聞きつけて目覚めたハルが、ノロノロ入ってきて、僕の足に茶色の毛をこすりつけると、餌をねだる代わりに大きなアクビをする。

今日の夢は、大きな音のする部屋に閉じ込められて、怖かったけど、お父さんが膝に乗せてくれたから存外平気だった。という話で、そうかい、懐かしかったろう、と僕が相槌を打つと、あんたもいたよ、ずっとお父さんと話していたな、と返ってきた。

ほぐした缶詰の中身を皿に出しながら、父が亡くなって何年になるだろうかと考えていた。
少なくとも人間にとっても結構な年月になる。

猫の記憶力も大したものだ、と一人ごとのように口に出すと、僕は昔のことを忘れたりしないよ。あんたみたいにこだわらないだけ。と言い返された。言葉の意味を考える暇も与えず、ハルは盛られたササミにかじりついた。

子猫だったハルを見つけたのは僕だった。
徹夜で小説を読んだ早朝に、マンションの駐車場の入り口で子猫のハルを拾ったのだ。
子猫は艱難辛苦の旅を続けた旅人のように弱りきっていて、目やにがこびりついた左目を開けられないまま、振り絞るような声で鳴き続けていた。
家に連れ帰って、ぬるま湯で洗ったけど、左目は開かなかった。諦めて暴れる子猫をバスタオルでふいていると、目覚めた父が洗面所に入ってきた。
父は片目の子猫を見ると、すぐに台所に向かって、冷蔵庫からカニ蒲鉾を出して鼻先に近づけた。子猫は泣き叫んでいた声を止めると、ずっとカニ蒲鉾を眺めて、匂いを嗅いだ。そして舌をちろっと出して、まさに舐めようとした時、父はそれをひっこめて自分で食べてしまった。
俺は猫は好きじゃないが、おちょくるのは好きなんや。と父は笑った。

ハルを撫でていると、不意に目が開いてこちらを見た。
また夢を見たよ。とハルは言った。ずっと昔の夏の夢だ。蝉が沢山鳴いていて、それを一匹ずつ仕留めていくんだ。遠くでお父さんが呼んでいるのはわかっていたんだけど、やめられなくてね。とハルは申しわけなさそうに後ろ足で頭を掻く。

そりゃ楽しい夢だったね。と僕はハルの背中をなでる。
あの夏は楽しかった。蝉ってのは今もああして鳴いてるのかね。と、もう外に出ることもなくなったハルは言ったきり、そっと前足に顎を乗せると、目を閉じてしまう。

いるとも。もう季節は過ぎて少なくなったけど、今年もずいぶんと賑やかだった。
僕が言っても、ハルは返事もせずに気持ちよさそうに目を閉じたままだ。
眠っているのか起きているのか、そんな些細な事まで猫は人間に教ようとは思わないのだった。

眠るハルをそのままにして、僕は梅田駅へ向かう。
噴水のところで、彼女が革ジャンにジーンズという服装に大きなトランクケースを持って立っていて「久しぶりだね」と言った。
そうかな。と僕は答えて、その時になってようやく、ボサボサになった髪型を整えた。
彼女は今日岡山に帰ることになっている。その前に少し話をしようという約束だった。

「もう何も話すことはないのはわかってるんだけど」と彼女は言った。僕は自分の煙草に火をつけ、ライターの火をつけたまま彼女を見てすぐに消した、そういえば、随分前に彼女は煙草を辞めていたのだった。

女たちが皆煙草を吸っていた時代の話をしよう、という書き出しで始まる小説を書きたいと思っていた。その小説では、彼女のような小柄な女の子がみんな咥え煙草でクラブのフラッシュライトの中で体を揺らしているのだ。

「帰ってどうするの?」僕は尋ねた。
「しばらく休んで、それから決める。もう一度大学に戻るかもしれない」
そうか、と僕はそれだけで会話を打ち切った。彼女と恋人だった頃はそれで充分だったが、今では次から次へと言いたいことが湧き出てくる。でもどれも口に出す勇気がなかった。だから僕たちはまるで恋人同志のように寡黙なまま喫茶店の一角に座っていられるのだった。

「私、今でもあなたのことは、尊敬してるんだよ」
尊敬?どこが?と僕は驚いたが、黙っていた。
「だから、それを見ててあげられないのが、助けられないのが、自分でも情けないの」
「君の人生だから好きにしたらいいよ」と僕は言った。それがどういう印象を与えるか、ということはあまり気にしなかった。
「そういう人だよね。シマ君は」
そして、そっと、僕の手を握った。それは冷たくて、電車の時間になる頃に、ようやく人肌ほどに温まっていた。

ホームで彼女にトランクケースを渡した。
「ねえ?」電車がホームに入ってきた。「岡山駅まで送ってくれない?」

僕は断った。この後にある用事とか、適当な嘘すらつかなかった。彼女は優しく笑って、元気でね、と言って、振り向くこともなく、西に向かう列車に乗り込んだ。


父が亡くなる前の晩をよく覚えている。部屋を暗くして、父は一人で夜のニュース番組を見ている。ハルがどこからともなくやってきて、胡座をかいた父の膝に乗って満足そうに眠りだす。
テレビの中でコメンテーターがディズニーランドについて話している。
ダイニングテーブルに座った僕は、その光景を見て、まるで団らんみたいなだな。と思った。そして、なんとなくこの光景をいつまでも覚えているような気がした。

その翌日の晩、父は狭心症で世を去った。帰ってきた骨壷と位牌と東京に出ていた兄のどれにも確たる興味を示さずハルはずっとお気に入りの場所で眠り続けていた。

それから長い時間がたって、ハルは歯が悪くなって、大好物のカニ蒲鉾を食べられなくなって、やがて、夢の住人になった。

一人では静かで、大きすぎる家の寝室で、僕は眠っている。

夢の中で、僕は岡山方面へ向かう新幹線に乗っていた。
目の前に父が座っている。
久しぶりじゃないか。と僕が言うと、父は鼻の頭を掻いて、色々、すまんな、と照れくさそうに笑った。
いつの間にかハルが隣の席にいて立ち座ってキョロキョロしている。
父はハルを持ち上げて、自分の膝に乗せた。ハルは満足そうにゴロゴロと喉を鳴らしている。列車が減速を始める。駅についたのだ。
不安そうに見守る僕に、元気でな。と父は言った。そして、近くの公園へハルを連れて行く時のようにハルをしっかりと抱きしめたまま、列車を降りていった。

西方浄土というぐらいだから、きっと父のいる場所は西にあるのだろう、と僕は思った。
窓から見ていると、父とハルが逆方向の列車に、東に向かう在来線に乗り換えるのが見えた。父によれば、ハルはまだ彼の地に行ってしまうわけにはいかないらしい。
これがハルの見た夢のことであっても、僕の夢のことであっても、僕は少し安心する。