「きみって普通だね」

日本人は「普通」ということが憧れの対象にもなっている場合があるのだけれど、意外にも、他人に「普通だね」と言われると釈然としない気持ちになる人が多いように感じる。

「普通に大学に行って、普通に就職して、普通に結婚して、普通に子供がほしい」

上記のようなことを将来の夢としてあげる人は一定数いると思う。これの返答として「普通が一番むずかしい」というのが模範的解答で、この問答は日本人なら8割は聞いたことがあると思うほどテンプレートだ。

それくらい日本では「普通」ということに憧れる人が多いように感じる。しかし、「僕は普通です」と口にするのは何とも思わないのだけれど、他人から「普通ですね」と言われると、なんだかわだかまりが心に残るのである。

大学生のときに地元のAくんという変わり者に「Aくんって本当に変わってるよね」という話をしたら、「俺らの周りにいる人もみんなも変じゃない?」と返された。

たしかにそうかもしれないと思った。周りにいる友人はそれぞれ僕にはない特徴があるし、変わった性格をしていておもしろかった。

それを考えたときに案外自分は普通だなと感じた。僕は考えて計算して会話をするタイプなので、直感的にボケたり、天然な発言をする友人達を考えると「普通」だと感じてしまう。

それらを考え「俺が一番普通だよね」とAくんに伝えたら、「あーたしかに。けっこう普通かもね」と言われた。前にも述べたように、周りの変わっている友達を認めて、僕は自分が普通だと思っている。なので、この会話は成立していると言える。

しかし、なぜか他人に「普通」と判断されると飲み込めない部分があったのだ。「普通」というのは決して悪いことではない。だけれど、「変わっている」人たちと比較して、「普通」と言われると、友人達より劣っていると言われているような気持ちになったのだ。

もちろん上記は僕の自己顕示欲が強い性格により「普通」とは思われたくなかったのかもしれない。本当は「普通じゃないよ」と言われたかっただけかもしれない。

しかし、こういったケースはどうだろうか。例えば自分に奥さんと子どもがいたとして、一生懸命働いて幸せな家庭を築いていたとしよう。

それを見た周りの人が「〇〇さんちは普通だね」と言ってきたら、少し頭に来るものがないだろうか。悩んだり、泣いたり、汗水たらして働いたりしながら少しずつ築いてきたものを「普通」と他人に捉えられるのは、やはり簡単に納得できるものじゃないと思う。

「普通」という言葉に憧れを持つ人が多いが、結局のところ「普通」という言葉はあくまで自分から見た物差しで当てにならない。そもそも「普通」という言葉を外向けに使うときは大抵が照れ隠しの場合が多いのだろう。

それから「普通に大学に行って、普通に就職して、普通に結婚して、普通に子供がいる」という行動を真っ当にやっている人がいれば、少なくとも僕のような中途半端な人間から見れば普通ではない。大それたことを成し遂げている人間だと思う。それらの間に必ずそれぞれのドラマがあって、コピペのように「普通」な人生というのはありえないことだと思う。

仮にそれらの人生が自分自身からしたら「普通」だとしても、他の人からしたらそれがは「普通」ではない。僕は大学を中退して、就職活動も未経験なので、そういう経験をしている人は心から尊敬できるし羨ましい。

「普通」という言葉は一見すると何にでも使えて便利なように思えるが、それぞれの尺度がまったく違い、解釈も様々で、もしかしたらものすごく曖昧な言葉なのかもしれない。

その人の基準値で勝手に「普通だね」と評価されるから、他人に言われると腑に落ちない部分があるのだろう。そして、結局は自己顕示欲や承認欲求がまったく0の人間なんていないので、「普通」という言葉が意外に心に刺さるのかもしれない。

色々と書いたけれど、僕も文章が上手くないので、どこまで自分の言いたいことが伝えられたかはわからない。普通くらいには上手く書けてればいいなと思う。

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