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早大生が在学中に子供を身ごもったときのこと①卒論

いきなりヘビーなテーマですね。痛々しくて目を背けたくなります。
もう14年も前の話になりますが、大学3年生の秋に、子供を身ごもりました。

子供ができないための行動を怠ったわけではなく、「本当にこれは事故だっんだ!」と弁明したいのはやまやまですが、無計画で自己管理できていない人間だとレッテルを貼られれば、甘んじて受けるしかないでしょう…

このあたりの話を書くのは勇気が要ったのですが、ずいぶん時間も経って、自分なりに消化できて来たこともあるので、ふりかえりながら、一度書いておきたいと思います。

別に誰に頼まれたわけでもないですが、きっと、ごくまれに、私と似たようなことをやらかす誰かがいれば、その人の手掛かりになるかもしれませんから。

何より、この辛い時期を乗り切るにあたって私を支えてくれたのは、沢山の人の協力と、そこで頂いた言葉たちでした。彼ら・彼女らへの感謝を交えながら、書いていきたいと思います。

勉強はそこそこしていたはずが…崩れていく感覚

在学中に子供を作るくらいだから、どんないい加減な人間かと思われるかもしれませんが、学業についてはそれなりにストイックだったと思います。
当時、高校の学科は偏差値70ほどで、燃え尽き症候群に陥っていた一時期を除けば、そこそこ勉強していた方。大学では、平凡な成績ながらも3年生の前期には、ほとんど卒業に必要な単位を取り終えていました。
レポートの締め切り前には「レポートを写させて」と言ってくる男子もいたので、ほどほどにちゃんとやっている雰囲気の学生だった・・・はず。

高校生まで拗らせ屋だったけど、大学では仲の良い友達が出来て、いろんな活動をして、ようやく日々が楽しくなってきたころ。大企業への就職も目前。

そこで子供ができたことがわかって、自分だけレールから外れ、この先どうなってしまうのかも定かではない。そんな状況になった事実を認めたときは、今まで自分が積み上げてきたものが、全部崩れていくような感覚でした。でも、やっていくしかない…
絶望と開き直りの両方が胸中にありました。

産むか産まないか・卒業できるかできないか

「何らかの事情で身ごもったら、おろさない」というのは前々から決めていたことでした。ここは人それぞれの価値観・選択。こうなったら、出来れば産みたいと願う人が多いと思うけれど、産むのが絶対偉いとも思いません。でも、私は産まずに自分の人生を優先しても、その呵責に耐えて生きていく自信がありませんでした。自分のキャリアは当面だめになるかもしれないけれど、子供の命には代えられない…

離れた富山県に住む親に、電話で話しました。
父は動揺したものの、母が「あんたの孫だよ」というと「そうか…俺の孫か。」と腑に落ちた様子。そして、責めるではなく、現実的にどうするかを考えてくれました。
子供がいながら卒業するにはどうしたらいいか。そのための、産むまで・産んだあとの過ごし方。目前に控えた就職はどうするか。
幸い、3年生の前期までに、ほとんどの単位を取り終えていたこともあり、
・子供が生まれてから授業に出られなくても問題はない。
・「卒業論文」さえできれば、卒業は可能。
・親元の富山か、主人の地元の石川で就職先を見つければ、細々とキャリアもつなげるだろう。

という結論は見えていました。

富山は待機児童が少なく、昔から、子育て中でも実家と協力をしながら、お嫁さんが働きに出ている家庭が多い地域。私の母も、小学校の教員をしながら祖母の手を借りて私達を育ててくれましたので、そのあたりのイメージを持ってくれたのだと思います。
11歳下の妹が小学生だった当時は、実母もまだ子育て中。そこに落ち着く暇もなく、赤ちゃんが登場するのは大変な負担だったでしょうが、気丈な母らしく

孫がいないよりはマシ!

と励ましてくれました。

親友に話したときに、もらったひとこと

上京してこの大学に入って最もよかったと思うことの一つに、かけがえのない友人達ができたことがありました。情報系の学科で女子は少なかったのですが、その分、苦楽を共にした彼女たちとは仲が良かった。そのうちの1人にメールで打ち明けたところ、「ちょっと話そうか」と、高田馬場にできたばかりのカフェに呼び出してくれました。

この世の終わりのような気分でいる私に、

おめでとう。めぐは、お母さんになったんだよ。

と彼女は飲み物を差し出しながら言いました。
そのひとことに全てが含まれている気がしました。
こういう時、彼女は、自分に何が出来るのか、相手にどういう言葉をかければいいのかが自然とわかり、行動に移せてしまうところがある。そこを今でも尊敬しています。
最終的に、就職と同時に実家に帰らなきゃいけなくなったときも「なんでめぐなの?と思って何度も泣いた」と、惜しんでくれたのも彼女でした。

他の友人達にも告げたところ、彼女たちは常に気にかけながら助けてくれ、卒業まで一緒に過ごしてくれました。
手作りの結婚パーティーを高田馬場のコットンクラブで開いてもらい、卒業旅行にも、私が子連れでも来やすいようにと、地元富山の温泉地まで来てくれました。
本当なら海外旅行にでも行けただろうに…一緒に過ごすことを選んでくれて、ありがとう。

バイトをして費用を貯める

まだ親のすねをかじっている状態の人間が、子供を授かることになるので、ある程度、主人や自分の実家に金銭的な負担をかけることは避けられない。
でも、その状況を当たり前と思っていたわけではありませんでした。
「動けるのは子供が生まれる前までだから、少しでも自分で稼ごう。」と思い、バイト先の社長に事情を話し、比較的ギャラの良いビラ配りの仕事などをいくつか掛け持ちしました。安定期に入るギリギリの12月の寒空の下、渋谷でホットヨガのチラシを配っていたことを懐かしく思い返します。
現場が終わった後、つわりで吐いた日もありました。
そうこうして、月に10万円ほど稼ぎました。微々たるお金ですが、学生には精一杯の罪滅ぼしでした。
これを読んでいる人が同じ状況でも、あんまり真似しないでほしいところです。

「多様性は早稲田の命」の「多様性」には子育て中の人間も含まれる

「多様性は早稲田の命」と言うだけあって、大学が運営する託児所もあり、子育てをしながら学業を修めたいという人も支援するという、寛容な校風であったところにも、大いに救われました。その記載を大学のホームページで見つけたときには、胸をなで下ろしたことを覚えています。

とはいえ、出産後すぐに東京のアパートに子供を連れてきて、託児所に預けながら学校に通うというのは、なかなか困難です。主人は京都の大学に通っていて協力を得られない。とすれば産後は基本的に富山の実家を生活基盤として、助けを得ながら、要所で東京に通うような生活にするのが現実的。(親元を頼るふがいなさよ…でも、もはや、頼れるものは頼るしかありません。)

子育てしながら、卒論をできるか

卒業までの残されたミッションは「卒業論文」。
研究室の配属もこれからというところだったので、まずは候補となる研究室の先生に、「出産予定があり、出産後は地方の実家で子育てをしながら卒論をさせていただけないか」といったような相談したところ、ありがたいことに「応援しよう」という旨の回答をいただきました。
情報系の学科だったので、幸いパソコン1台とインターネット環境があれば研究が可能。週1回のミーティングをオンラインでできるか、数ヶ月に1回の発表には実家の協力を得て上京できるか、といった要件を満たせば、乗り切ることが出来ると。

成績順で研究室を選ぶシステムだったので、成績が足りなければ、この先生の研究室に入れないところでしたが、先生には「成績足りてましたよ」と言われ、お情けではない正規ルートで入れた模様。この時ばかりは、ちゃんとお勉強していた過去の自分に救われました。
学科の友人たちは当初「めぐを助けるために一緒の研究室に入ろう」と言ってくれましたが、結局、おのおのが一番入りたい研究室に入る道を選びました。仲は良くても馴れ合いにならず、各人が自立して自分のテーマを持って切磋琢磨するという関係が、早稲女らしくて気に入っています。

キーワードは「オンライン」「リモート」

その様なわけで、先生のご理解に救われながら、自分が一番行きたかった研究室の、一番やりたかった研究班に配属させてもらうことができました。
「リモートワーク」「ビデオ会議」などが馴染の言葉になる前の時期でしたが、そこにはちょうど「オンラインビデオ会議システム」と「インスタントメッセージング(LINEのようなメッセージアプリ)」の研究をしている研究班があったのです。
もとより、MSNメッセンジャーで友人とメッセージのやりとりをしていたりと、馴染みと興味のあるテーマだったので、本当にうれしいことでした。

このことが、ゆくゆくメンバー全員がリモート勤務の会社を、自分で作ることにつながっていくことは、当時、知る由もありません。この後、子育てをしながらの会社勤めのやりづらさや、都会と地方とのギャップなどにぶち当たるのですが、オンラインやリモートワークは、それらを克服するキーワードとして、以後も人生に伴い続けるのでした。

4年の7月に無事出産し、先生は出産祝いにと、赤ちゃん用のパジャマを贈ってくださいました。以降、富山の実家で子育てをしながら課題のプログラミングをすすめました。

指導員の先生方や、同じ研究班の唯一の先輩(修士)が、週1回、東京と富山をビデオ会議システムでつないで、ゼミを開いてくださいました。
メッセージアプリに、プッシュ通知でスタンプが届くような、今で言うLINE風の機能をつけてみたり、「子育てアプリと絡められないかね?」といった私の立場を思いやるアイディアを出して和ませてくださったり。
「配属されてきたと思ったら、いきなり身重」などという、扱いに困る人間を、よくぞこんなにもお世話してくださったものだと、今思い返しても、彼らにはひたすら感謝に堪えません。

研究で使用していたプログラムが、まだここまで普及する前の「Ruby on Rails(当時は2系)」だったことも幸いでした。プログラミングを楽しむために開発されたRuby。当時、うまく使いこなせていたとは言えないけれど、プログラミングが楽しいと思え始めたのもこの頃です。

慣れない育児、夜中の授乳にふらふらし、半べそになりながらも、ちょっとずつ地道に研究を進め、論文を仕上げ、無事に単位をいただくことができました。

上京したときに、研究班の先輩は、他の先輩たちの飲み会の輪の中に私を連れて行ってくれました。なかなか研究室に顔を出せなくて疎遠気味だったところを、溶け込めるように気にかけてくださったのでしょう。

俺、松原さんがいなければ、卒業できなかった。

というのは、先輩に最後に言われた言葉です。私が助けてもらってばかりのつもりでも、少しは研究のサポートができていたのなら嬉しい。本当かお世辞かわからないけれど、「君は必要とされ、役立っていたんだよ」と私が感じられるように、この言葉を選んでくださったのだと思います。当時の私には、何よりもの誉め言葉でした。

上京の度に子供を預かってくれた義父と義母

最後に、私が数か月に一度、研究室に行くために上京する折に、子供を預かってくれたのは、石川県に住む主人の実家の義父と義母でした。

子供を授かったと分かって、東京まで会いに来てくれた際に、義父から提示された条件は

ちゃんと助けを求めて頼ること

でした。

自分はもう大人で一人前なんだからと、助けを拒むことをしてはいけない。家族の協力を受け入れること。
そして、子供ができたことに対して「ごめんなさい」という言葉は、新しい命に対して失礼だから使わないこと。

を約束しました。

義両親は初めての女の赤ちゃんということもあり、娘のことを大変かわいがってくださいました。孫でありながら、実の娘のような存在だと、今でも言ってくれています。


さて、この状況を乗り切るためには、もう一つの関門がありました。
就職です。(つづく)

※2019年10月23日追記 続きを書きました


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