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海の上に降る雨が観測されたことにより、2年前のわたしが救われた~『対岸の家事』を読んで~B面の読書感想文~

「あの家庭は、まだ起きているんだな。」

まだ夜間授乳をしていたころ、よくベランダから外を眺めていた。
夜1時に起きて、3時間ほど授乳と寝かしつけに苦戦した後の明け方4時。ベランダから外を眺めては、向かいのマンションに灯りがあるのを見て、安心した。

「あぁ、あそこの家庭も起きている」って。
今の時間に起きているのは私だけじゃないんだな、って。

灯りがついている家庭は、別に育児で起きているわけではなかっただろう。仕事をしていたかもしれない。もしかしたらTVを観ながらただ夜更かしをしていただけかもしれない。

でも、何でも良かった。その家庭が起きている理由なんで、どうでも良かった。ただ、今わたしが必死になっているこの時間に、ほとんどの人が寝ている真夜中のこの時間に、一緒に起きている人がそこにいる。その事実だけで、ホッとしたものだ。

この夜は孤独じゃないって。
すぐそこに、一緒に起きている人がいるって。


◇◆◇


ベランダから外を眺める時に、向かいのマンションの灯りに目がいく時は、まだ良かった。比較的、精神が安定している時だった。

そうでない時は。

遥か下の道路に目がいった。

マンションの最上階である我が家は、かなり見晴らしが良い。周辺では我が家より高いマンションがない。だから、遠くまで見渡せた。

その素晴らしい眺望を全く見ず、遥か下の道路を見ていた。
ただ、下の道路を見ていた。

「ここから落ちたら、この生活も終わりにできるかな」
この思いが常に頭をよぎっていた。

あの植木にひっかかってしまったら痛いだけかな、とか、
今歩いているあの人にぶつかったら大変だな、とか、
あそこに落ちているのはゴミだろうか、とか、
ついでにどうでもいいところにも目がいった。

死というのは、もう限界になって「もう無理!よし!飛び降りてやるー!」と決意するもんじゃないんだな、ということを知った。
なんかぼーっとしていて、もう何も考えられなくなって、ただただ今のこの状況を終わりにしたくて、気が付いたらフラっと一歩踏み出そうとしたら、すぐそこに大きな穴がぽっかりあいている、そんな感覚だった。


◇◆◇


朱野帰子さんの『対岸の家事』で、マンションの屋上で主婦の詩穂と、ワーキングマザーの礼子が語り合うシーンがある。

「復帰して三ヵ月、自分が何を食べたかも覚えていないの。疲れているかどうかもわからない。でも子供を産んだのも、働き続けるって決めたのも自分だからって、なんとか頑張ってきた。でももう限界で……。気づいたら、体が勝手に動いて階段を登ってた」
礼子は両手から顔を上げ、遥か下の道路に視線を移している。
「ここからだったら確実に終わりにできるんだろうね」
詩穂も道路に目を落とした。止まれ、という白い文字が、ここからだと拡大鏡がいるくらいに小さい。はじに置かれたゴミ袋に、ネットがかかっていないことに気づいた。誰だろう。あんな杜撰なことをしたのは。カラスにつつかれしまう。
(『対岸の家事』p.41)

このシーンを読んだ時、夜間授乳で眺めていたベランダからの風景が、鮮明によみがえってきた。


◇◆◇


そもそも、なぜ『対岸の家事』を読もうと思ったかと言うと。

きっかけは「わたし、定時で帰ります。」である。

このドラマを観た人はかなり多いのではないだろうか。
もれなく、わたしも観ていた。

実は、普段はほとんどTVを観ない。
別にTVを観ない主義だとか、TVがつまらないとか、そういう理由ではなくて「ただ何となく見る」というのが出来ないのだ。

ネットだと、自分の見たい情報を自分のペースで見られる。好きな時に、好きなタイミングで、好きなペースで。でもTVだと自分のペースで見られない。それは、ドラマでもバラエティでもニュースでも全部そう。

「全体感を把握して、そこから細部に集中したい」という性格が災いし、自分のペースで進められないTVを観続けることが耐えられない。

でも、それでも観たのが「わたし、定時で帰ります。」だった。そしてハマった。サービス残業やセクハラなど重い話題を扱っているのに、重い雰囲気を感じさせなかった。身近だった。それでいて現実味があり、ドラマを観た後はフっと心が軽くなるような、そんなドラマだった。その原作を書いたのが朱野帰子さんだと知った。だから、彼女のツイッターやnoteをフォローした。

そしたら「対岸の家事」が文庫本になったということを知って。
気が付いたら、買っていた。



「一日でいい。誰かにご飯を作ってもらいたかった。」


始まりはこの一文だった。

夢中になった。一気に読んだ。
通勤時間すべてと、娘が寝てからの時間すべて、夢中になって読んだ。
夢中になりすぎて、なんと1日で読み終えてしまった。
それだけでは足りなくて、2回目も読んだ。
じっくりと。1回目に読んだ内容を反芻するように。
そして今、このnoteを書いている。
実は、2回目の読書感想文だ。
1つの本に対して、2回目の読書感想文を書くなんて、人生で初めてである。


◇◆◇


家族の為に「家事をすること」を仕事に選んだ主婦。二児を抱え、自分に熱があっても休めない多忙なワーキングマザー。外資系企業で働く妻の代わりに、二年間の育休をとり、一歳の娘を育てるエリート公務員。医者の夫との間に子どもができす、姑や患者にプレッシャーをかけられる主婦。


わたしの立場は、ワーキングマザーである礼子に共感しやすい。この部分なんて、読んでいて泣きそうになった。

これからの社会は誰の世話もしないでいい人たちを中心に回っていくのですか、という言葉も喉まで出ている。
(中略)
あなただって小さい頃は、しょっちゅう熱を出して、そのたびにお母さんは小児科へ連れていってくれたはずだ。リンゴをすって食べさせてくれたはずだ。GDPにも算出されないその仕事をあなたは覚えていないだろうけれど、それはたしかに労働だった。
(中略)
子供を産むことは職場においてはリスクであり、それを受け容れたのはあなた自身だ。そんな問題が起きても、自己責任で解決すべきことなのだ。だから、道路の向こうからやってくる大型トラックを見るたび、体が道路のほうへ動きそうになっているなんて、誰にも打ち明けてはいけないのだ。
仕事は前倒し、前倒しでやっている。定時ギリギリまで粘り、駅に向かって全速力で走る。礼子はいつでも体がちぎれるほど走っていた。一分でも一秒でも前に走って時間を作る。でもどんなに前倒ししても、子供の病気という爆弾で吹っ飛んでしまう。ゲームオーバーだ。
『対岸の家事 p.95-p.96』


◇◆◇


著者の朱野帰子さんは、インタビューで語っていた。

他者のために働く人を軽んじる国で私たちは生きている、と。

「前にテレビで見たんですけど、海の上に降る雨って、本当に降っているのかどうか確かめられないそうなんです」
「え?」
「衛星とかでだいたいのことはわかっても、正確に観測はできないんだって」
「まあ、たしかに、海にはレーダー建てられないものね」
「たまたま通りかかった船だけが、その雨を見るんです」

この「雨」を、私はワンオペ育児を強いられた人たちが流す涙、という意味で書いた。

家事は重労働だ。自分の世話をする程度ならなんとかこなせても、育児や介護などの家族のケア労働がここに加わると、一気に過酷になる。交代要員が確保できなければ家を出ることもできない彼らが流す涙は海の上に降る雨と同じだ。観測さえされない。

今回のコロナ禍でも、どれだけ観測されない「雨」が降っただろう。
(上記インタビュー記事より)


◇◆◇


私がこの本を夢中になって読んだのは、これだ、と思った。

海の上に降る雨を、そこにいなければ誰にも気づいてもらえない涙を、朱野帰子さんはとても上手く言葉にし、小説にしてくれた。

だからこれを読んだ時に思ったのだ。

海の上に降る雨をしっかりを見てくれている人がいるって。気づいてくれている人がいるって。このモヤモヤした気持ちを、重くないタッチで言葉に綴ってくれて小説にしてくれた人がいる。それだけで、誰にも知られず流した涙を想い、救われた気持ちになったのだ。

夜間授乳の時に
ベランダから見たあの灯りを、
遥か下の道路を。
歩いている横を通った大型トラックを。

朱野帰子さんはインタビューでこう語っていた。

小説家の私にできることは少ない。彼らが降らせた「雨」をできるだけ観測しておくことしかできない。
他者のために働く人を軽んじる国で私たちは生きているのインタビューより)

朱野帰子さんが、降らせた「雨」を観測し、言葉を紡ぎ出し、この小説を送りだしてくれたおかげで、わたしは救われた。救われた人は多いだろう。

だから、この場を借りて朱野帰子さんにお礼を言いたい。

本当に、ありがとうございます。


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ひとつ前の投稿で、『対岸の家事』の読書感想文を書いたばかりです。

ひとつ前の読書感想文がA面なら、今日のはB面です。
読書感想文にしては、私の話が長いです。読書感想文というよりは、もはや著者・朱野帰子さんへのラブレターですね。

(3,648字)

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