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心の揺らぎを探る

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#当事者

心の痛みは誰にも測れない

当事者は語れない、と言われる。 「語れない」という言葉には、困っている人は「自分が何に困っているのか分からない」「困りごとを言葉にできない」という意味が込められている。 自分が何に困っているのか言語化して伝えられる人は、「真の当事者ではない」と言われることもある。 この表現には、心が痛む。 なぜ心が痛むのか。 それは、真の当事者こそがサポートすべき人であり、それ以外は対象者ではない。そう読み取ってしまったからだ。 本当に必要なサポートは何なのかたしかに自分の困りご

乗り越えた自慢を聞かせてくれ

「幼いころに“虐待”を受けた子どもは、脳が萎縮する」 「子ども時代に家庭で傷ついた経験が、大人になってからの人格形成に影響する」 それは、分かったからさ。 じゃあ、大人になった私たちは、どう生きればいいんですか? 「事実を伝える」という名目で生まれた、虐待やDVのルポタージュ。 クリックされるために、煽るかのように「鬼畜」「罵る」「悲劇」という衝撃的な言葉ばかり並べられたタイトル。結末はきまって、バッドエンド。 彼らはこの先、どうやって奪われた自分を取り戻すんですか?

支援を超える「ありのままの肯定」

「子どもの頃、どんな支援がほしかった?」と聞かれることがある。 私は学校から見過ごされた経験も、福祉につながった経験も、両方持っている。見えるか、見えないか。そんなギリギリのラインにいた子どもだったのだと思う。 そして今は、子どもや家族をサポートをする側になっている。 サポート側の立場も分かるからだろうか。「どんな支援がほしかった?」そう聞かれることが多い。 そんな時、「本当に求めているものは、「支援」なんですかね?」と問いを投げ返すことがある。自分自身が、アンチ支援

当事者性に潜む、暴力性から抜け出す

人に厳しすぎることを、いつも反省している。 ある日、はたと気づいたこと。それは、子どもの支援に携わる人に対して、特に厳しいまなざしを向けてしまうことだ。 どんな組織に所属している人も、みんなそれぞれに想いを持つ優しい人たちばかりだと思う。 それなのに、特別厳しいまなざしを向けてしまうのは、「同志」としてではなく、「当事者」としてのまなざしで見つめているからかもしれないと気づいた。 支援を受けることへの申し訳なさ中学生の頃、「自分は優先順位が低い子だ」と思っていた。