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歴史上の人物 日野富子

今週の歴史上の人物は室町幕府8代将軍・足利義政の正室日野富子です。


お生まれ





日野 富子(ひの とみこ)は永享12年(1440年)

山城国(京都府)の生まれと言われています。

室町幕府の足利将軍家と縁戚関係を持っていた日野家の出身です。

お父さんは蔵人右少弁・日野重政、母は従三位・北小路苗子(北小路禅尼)で

兄弟に勝光(兄)、永俊(11代将軍足利義澄の義父)、資治(日野兼興の養子)、妹に良子(足利義視室)がいます。


室町幕府8代将軍で夫となる足利義政の生母・日野重子は富子の大叔母にあたるそうです。

正式名(天皇に対する名乗り)は氏姓+諱の藤原朝臣冨子だそうです。

実際に本人が日野富子を名乗った事実は確認されておらず、当時の社会通念からすると正室が実家の苗字を名乗るはずはないという主張があります。


結婚


富子は康正元年(1455年)8月27日に16歳で義政の正室となり、長禄3年(1459年)1月9日には第1子が生まれるが、その日のうちに夭折します。

それを義政の乳母の今参局が呪いを掛けたせいだとし、彼女を琵琶湖沖島に流罪とし(本人は途中で自刃)、義政の側室4人も追放したそうです。

応仁の乱


富子は寛正3年(1462年)と翌4年(1463年)に相次いで女子を産むが、男子を産むことは出来ませんでした。

寛正5年(1464年)に義政は実弟で仏門に入っていた義尋を還俗させ、名を足利義視と改めさせ細川勝元を後見に将軍後継者とした。

しかし翌寛正6年(1465年)に富子は義尚を出産、富子は溺愛する義尚の擁立を目論み、義尚の後見である山名宗全や実家である日野家が義視と対立した。

これに幕府の実力者である勝元と宗全の対立や斯波氏、畠山氏の家督相続問題などが複雑に絡み合い、応仁の乱が勃発したと言われています。

富子は戦いの全時期を通じて細川勝元を総大将とする東軍側にいたが、東西両軍の大名に多額の金銭を貸し付けて、米の投機も行うなどして一時は現在の価値にして60億円もの資産があったといわれています。

文明3年(1471年)頃には室町亭(京都市上京区)に避難していた後土御門天皇との密通の噂が広まった。

当時後土御門天皇が富子の侍女に手を付けていたことによるものだが、そんな噂が流れるほど義政と富子の間は冷却化していたそうです。

文明5年(1473年)に山名宗全、細川勝元が死去し、義政が隠居して義尚が元服して9代将軍に就任すると、兄の日野勝光が新将軍代となりました。

義政は完全に政治への興味を失い、文明7年(1475年)には小河御所(上京区堀川)を建設して1人で移った。文明8年(1476年)に勝光が没すると、富子が実質的な幕府の指導者となりました。

「御台一天御計い」するといわれた富子に八朔の進物を届ける人々の行列は1、2町にも達したそうです。

11月に室町亭が焼失すると義政が住む小河御所へ移る。しかし、文明13年(1481年)になって義政は長谷聖護院の山荘に移ってしまった(その後長らく義政とは別居したそうです)。

文明9年(1477年)にようやく西軍の軍は引き上げ、京都における戦乱は終止符を打ったが、この翌日、富子は伝奏・広橋兼顕に「土御門内裏が炎上しなかったのは、西軍の大内政弘と申し合わせていたから」という趣旨の発言をしているそうです。

応仁の乱後


長禄3年(1459年)以降、京都七口には関所が設置され関銭を徴集していました(京都七口関)。

この関所の設置目的は内裏の修復費、諸祭礼の費用であったが、富子はほとんどその資金を懐に入れたそうです。

これに激高した民衆が文明12年(1480年)に徳政一揆を起こして関所を破壊した。富子は財産を守るために弾圧に乗りだし、一揆後は直ちに関の再設置に取りかかったが、民衆だけでなく公家の怨嗟の的となったそうです。

義尚は成長すると富子を疎んじ始め、文明15年(1483年)には富子をおいて伊勢貞宗邸に移転し酒色に溺れたそうです。

このため富子は一時権力を失った。しかし延徳元年(1489年)に六角高頼討伐(長享・延徳の乱)で遠征中の義尚が25歳で没した。息子の急死に富子は意気消沈したが、義視と自分の妹の間に生まれた足利義材(後の義稙)を将軍に擁立するよう義政と協議し、同年4月に合意が行われた。延徳2年(1490年)正月に義政が没すると、義材が10代将軍となった。

しかし後見人となった義視は権力を持ち続ける富子と争い、富子の邸宅小河邸を破壊し領地を差し押さえた。翌年の義視の死後、親政を開始した義材もまた富子と敵対したといわれています。

明応2年(1493年)、義材が河内に出征している間に富子は細川政元と共にクーデターを起こして義材を廃し、義政の甥で堀越公方・足利政知の子・義澄を11代将軍に就けた(明応の政変)。

その3年後、明応5年(1496年)に57歳で死去したといわれています。


日野富子についての人物像


その活動に対する庶民からの評価は決して高くなく、戦乱で苦しむ庶民をよそに巨万の富を築いた「悪女」「守銭奴」と評されました。夫の義政が東山山荘の造営のため費用捻出に苦心していたときは、一銭の援助もしていないことから「天下の悪妻」とも呼ばれています。

一方で、火災で朝廷の御所が焼け、修復するため膨大な費用が必要になったときは自身の蓄財から賄ったりしていたそうです。

幕府財政は贈答儀礼や手数料収入などに頼ったものに切り替わりつつあり、富子の蓄財もその文脈で考える必要があるとも指摘されています。


富子の遺産は7万貫(約70億円)に達していたそうです。


また学問にも熱心であり、関白・一条兼良に源氏物語の講義を受けている。

将軍家御台所とはいえ、関白が女性に講義をするのは異例であるが、富子はこのために莫大な献金を行っているそうです。

義尚の急死とそれに続く義政の病没によって、幕府内部が動揺する中で40年近く幕府とともに歩んできた富子は「御台」として引き続き幕府内部に大きな影響を与えてきたと評価されています。

明応の政変における将軍追放も「御台」富子の支持があって初めて可能であったと言われている。
応仁の乱の原因として義尚の後見人を山名宗全に頼んだことが挙げられるが、近年の研究で『応仁記』が記した虚構ではないかとされているそうです。

理由として、富子が自身の妊娠中に実の妹を義視に嫁がせてその基盤強化に力を貸していること(男子が生まれてもそれが成人する可能性が低かったこと当時、義視との連携を維持して万一の場合に義視と実妹の子が将軍職を継ぐのが富子としては望ましかった)、富子が宗全に依頼した出来事は『応仁記』以外の記録には見当たらず、義尚が生まれる前に宗全が諸大名と連携、その中に義視がいたことが挙げられているそうです。

実際に義視を排除したかったのは義尚の養育係である伊勢貞親で、文正の政変の一因にこの動きに山名宗全・細川勝元らが反発したことにあるのではないか、と推測されています。

日野富子の墓所は京都市上京区の華開院に富子のものと伝わる墓が存在するそうです。


めぐめぐがすごいと思う日野富子のこと

1遺産70億という政治家だけでなくある意味当時最強の実業家であったこと

2そして北条政子以上に怖い女性として恐れられていたこと

3しかし自分のポケットマネーから学問への寄進や火災で朝廷の御所が焼け、修復するため膨大な費用が必要になったときは自身の蓄財から賄ったりしていたなど、夫が出来ないことをある意味やったという解釈もできること。


日野富子に関する記述を読んで

夫婦仲が悪くても世のためにいいことが出来る方が良いのか

夫婦仲が良くてもっと世のために悪くするのが良いのか 

考えました。

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