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第12週 木曜日作家歌人漫画家 相模


第12週の作家歌人漫画家は百人一首に句がある歌人の 相模 です。


相模(さがみ)は998年(長徳4年)頃生まれたと考えられています。

実父は不詳で、摂津源氏但馬守頼光の養女。母は能登守慶滋保章の娘です。

初名は乙侍従(おとじじゅう)というそうです。

十代の頃、橘則長の妻となるが離別し、1020年(寛仁4年)以前に大江公資の妻となり、「相模」の女房名で呼ばれるようになります。

夫の任地相模国に随行したものの、結婚生活が破綻し、1025年(万寿2年)頃離別したそうです。

この頃、四条大納言藤原公任の息男であり、自身も歌人として名高い中納言藤原定頼との恋愛も知られています。

やがて一条天皇の第1皇女(入道一品宮)脩子内親王に出仕します。

1049年(永承4年)内親王薨去後は、さらに後朱雀天皇の皇女祐子内親王に仕えました。

この間、数々の歌合に名をつらね、後朱雀・後冷泉朝の歌壇で活躍します。

彼女は和歌六人党(藤原範永・平棟仲・藤原経衡・源頼実・源頼家・源兼長)の歌道の指導的立場にあったばかりでなく、能因法師・和泉式部・源経信などとの交流もそれぞれの家集から伺えるそうです。

『後拾遺和歌集』では和泉式部についで第二位の入集歌数を誇る他、以降の勅撰集、家集等に多数作品を残しています。

和泉式部については6週目に書いたので宜しければご覧ください。



相模には以下の逸話があるそうです。


帰京後に恋愛関係が表面化する藤原定頼とは、任国下向以前から何らかの交流があり、好意を抱いていたそうです。

大江公資に強引に妻にされ、任国下向させられたのは、相模にとって不本意なことでした。

しかも、夫公資はやがて現地の女性と懇ろになり--といった悩みを、1024年(治安4年)正月、百首の歌に詠んで伊豆走湯権現の社頭に埋めました。

すると、4月になって、権現からの返歌だと称する百首の歌が社僧からもたらされたそうです。

彼女は、それに対して更に百首の返歌を詠みました。

家集にはそれらが収められていますが、権現作と称する百首を詠んだのが誰なのかは未だに不明だそうです。

その中に、夫が愛人を作ったことを訴える歌、

わかくさをこめてしめたるはるのゝに われよりほかのすみれつますな

— 流布本 『相模集』 230


権現(夫本人ではないかとも言われる)がなだめるつもりで、

なにか思なにをかなげくはるのゝに きみよりほかにすみれつませじ

— 流布本 『相模集』 329

ところが、ごまかしても無駄だと火に油、
もえまさるやけのゝのべのつぼすみれ つむひとたえずありとこそきけ

— 流布本 『相模集』 433

「焼け野の野辺の坪菫」という表現に、浮気相手の田舎女に対する敵意と蔑視が感じられそうです。

別の歌では女を「そほづ」(案山子)にも例えているそうです。


順徳院は、中期の女流歌人として、赤染衛門・紫式部・和泉式部と並んで相模を挙げ、「上古にはぢぬ歌人」の一人として称賛しているそうです。


紫式部には以下の記事を書いたのでもしよろしければご覧ください。





百人一首に載っているのは


65番
  永承六年内裏歌合に出した


うらみ侘ほさぬ袖たにある物を 恋にくちなん名こそおしけれ

— 『後拾遺和歌集』 第十四 恋四

です。

恨んで恨む気力もなくなり、泣き続けて涙を乾かすひまもない着物の袖さえ(朽ちてぼろぼろになるのが)惜しいのに、さらにこの恋のおかげで悪い噂を立てられ、朽ちていくだろう私の評判が惜しいのです。


という意味だそうです。


百人一首には、札以外に本や覚えるための関連グッズがいくつかあるようなのでここで紹介しておきます。





めぐめぐがすごいと思う相模のこと

1夫を2度亡くされ、夫に浮気されて苦しむなど辛い人生を過ごされているが、それを基に現代に残るまでの素晴らしい歌を残されていること。

2歌人として多く当時の貴族に歌の作り方を教えていたということ。

3そしてそのたくさんの歌が当時から絶賛されていたこと。






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