じっくり地味にゆっくり刻む信頼は、 強固で揺るぎがない


SNSなどで素の自分を赤裸々に
書く人がいる

その一方でどう考えても

「こう見られたい」

と思う見られたい自分の姿を
書く人もいる


言葉や文章で感情を伝える事は、zipファイルに入れ

凍結し受け手は、解凍してその瞬間の感情を解き放ち手に取る様だ

だから、その感情の揺れ幅が
大きい場合は、読み手にインパクトを
与えるものだと思う

例えば、自分の家族の死など悲しい投稿

facebook上の付き合いしか無い人の
家族の不幸を知りたい人は
どれくらいいるだろう?

そして、その人が本当に見せたい姿は
"可哀想な自分"なのだろうか?
と考えてしまう

ここに投稿者の"自己承認欲求"と言う二文字が
浮かびなんとも落ち着かない

だから、こういう類の投稿を見た瞬間に
自分の表現の仕方をもう一度
見直そうと決めている

「誰かを傷つけていないか?」

「誰かを負の感情に巻き込んでいないか?」


確かに大きく揺さぶる感情は、
ドラマティックで印象には残りやすい

しかし、大抵の人は、
普通の感情の時にその人の本当を
掬い取っているのだと思う

じっくり地味にゆっくり刻む信頼は、
強固で揺るぎがない

見えないけれど必ず存在する物だ

「人は、鏡」

という昔の諺には、
ただただ頷き内省する自分がいて

地味で目立たない毎日の中にある
発見に向き合っていきたいと

又、強く誓う


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