微笑みひとつをこの世界に残して

子供の運動会のために朝早く起きてビニールシートを脇に抱えてスマートフォンで時間をつぶしていたときに、その知らせはやってきました。

アメリカの友人の投稿なのですが、どうも様子がおかしいのです。そもそも投稿しているのが彼本人ではありません。奥さんが「彼の思い出にぴったりの写真だと思う」などと不安なことを書き込んでいます。最高の夫であり友人だったデビッドの思い出に、と。

喉の奥が切り裂かれたような感覚を覚えながらも、私はまだあわててはいけないと思いました。息子が父親と同じ名前ということなんて、いくらでもあるからです。ひょっとすると、お父上が亡くなられたのかもしれない。でもそこにあるのは、私が高校の頃に知っていた彼が家族と写っている写真ばかりです。

そして奥さんの投稿をさかのぼって、最悪のニュースを確認することになりました。

デビッドは、私の高校のころの大切な友人は、先週の火曜日に三歳のお子さんと船に乗っていたところ転覆事故にあい、子供を助けて自分は命を落としたのです。

最後のメッセージ

デビッドは、根暗な子でした。それはつまり私も根暗なグループの一員だったということを意味しますが。

いまでは市民権を得た nerd も1980年代末のアメリカの高校ではまだまだ肩身が狭い存在で、私たちはマッチョで暴力的な雰囲気がランチアワーにケチャップのついたフライドポテトやピザの切れ端という形をとって飛び交うホールの片隅で、コンピューターの話題や、ロールプレイングゲームや、コミックの話題で誰に迷惑をかけることなく盛り上がったものでした。

コンピューターのクラスも、確か一緒に受講していたのを覚えています。Basic、Lisp、Prolog、Pascal、Cといった言語を無茶苦茶な勢いで叩き込まれる、当時でも珍しいクラスでしたが、私たちはそれを最高の時間だと思いながら情報を浴びるように学ぶのを楽しんでいました。

オタク話ばかりで、いつだってどこかちょっと抜けていて、どこかはにかみながら居心地が悪そうに優しい微笑みを浮かべている、デビッドはそんな少年でした。

1991年卒業のクラスとして私たちが卒業し、しばらくは音信が途絶えていたものの、Facebookの利用が広まって私がアカウントを作って高校のコミュニティをみた2007-2009年頃には、すでに彼はいたように覚えています。

フレンド申請をしたら、普通に承認され、わたしたちはまたつながることができました。ほんのときおりやり取りをして、互いの近況にいいねを押してといったように。

直接話すことはなくても、いつも存在を感じている相手として10年以上、私たちはネット上でつながっていました。

一度だけ、彼が直接メッセージを送ってくれたことがありました。2018年の私の誕生日の数日後に「だいぶ遅れたけどおめでとう。楽しい誕生日を過ごせたかい?」という、一行だけの書き込みでした。

「ありがとう。二人の子供の世話でだいぶ歳をとってきた気がするよ」と返事をして、彼がそのコメントにいいねを押して。それが最後のやりとりになりました。

残されたもの

おそらく、私は運がよかったともいえます。Facebookがなければ遠いシカゴの地元を離れることがなかった彼の近況を、地方紙の片隅に書かれた事故の概要も、私は知ることはなかったでしょうから。

ああ、でも知らずにいても良かったのかもしれない。私はそのようにも思うのです。あの緑美しく冬の厳しいシカゴで彼がいつまでも居心地が悪そうに優しく微笑んでいるのを想像しながら、いつかは会いに行くことを夢見ているのでもよかったのです。

彼は、どうだったのでしょうか。

しかしこうして知ってしまった以上、わたしにはやるべきことが残されてしまいました。あのはにかみやだった彼のことを記憶すること、それをまだ小さくておそらく父親のことも覚えてないであろうお子さんに伝えなければいけないのです。

もうだいぶ細かいところはあいまいで、きっと間違いだらけの記憶をノートから再構成していますが、伝えなければいけないことは一つだけと決まっています。

あの優しい微笑みだけを残して君は逝ってしまったのだから、私はそれを記憶して伝えていこうと思うのです。

それでいいだろう? デビッド。


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ほりまさたけの Read / Write Diary

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