見出し画像

本や製品を紹介するときに弱い心が生み出す「私」を消してゆく

SNSに投稿をしたり、ブログで記事を書くことで製品や本を紹介することが多くあります。

もう長年やっていますので最近はそこまで葛藤がないものの、こうした文章を当初書いていた頃は頭の中で小さな綱引きのようなものが繰り広げられていたものです。

それは本当にくだらない、気の迷いののようなものなのですが、調子が悪いときや、心にネガティブなものをかかえているときに思考の隙をつくようにして入り込み、記事を乗っ取ろうとしてきます。

それは、紹介している対象よりも紹介している自分をよく見せたいという誘惑です。

たとえば誰からみても名作の、有名作家の本を紹介しているときは、そこまでこの誘惑はありません。紹介したり言及している相手のほうが巨大ですから、せいぜい間違った紹介をしないように注意をするという思考になりがちです(本来はそれも別の意味で失礼なのですが、それはまた別の日に)。

やっかいなのは、新刊本や、そこまで知られていない著者の本、あるいは製品を紹介しようと思うときです。正直にその本のどこがよいのか、その製品の特徴はなにかを解説すればいいものを、どこかで「まあ、私に言わせれば...」と、なにかよけいなことを付け加えたい気持ちがわいてくることがあるのです。

実際には「まあ、私に言わせれば」などと前置きをおいて文章を書くひとはいません。ですから、この部分はさまざまな表現で薄められて、表向きは存在しないようになります。

しかし読む人が読めば、それは間違いようもなくそこにあることが感じられる、文章から立ち上る雰囲気として残るのです。

とりわけ、一番注意しなければいけないのは、自分がどこかでみくびっている、上から目線で見つめている相手について書くときです。

そのように相手を思うことはあまり褒められたことではないにしても、思うこと自体は自由です。しかしそうした気持ちを隠しきれないまま筆を執ったときに、必ず災いが生じます。

そんなことを、いわゆる「廃棄前提」の炎上ツイート事件について眺めていて久しぶりに思い出したのでした。

本来は「私には多すぎた」で済む話に、透明な「私に言わせれば」が頭についてしまい、無用の一般化と、勝手な思い込みに過ぎない「廃棄前提」という結論に飛び乗ってしまったことが、多くの人にとっては違和感の元になっているように私には見えます。

関係者を含めた「炎上マーケティング」という火消しの試みも、結局の所は「私はちゃんと最初からこういう事態になることを予見していたのですよ」という虚勢にしか聞こえませんが、それよりも情報発信者として注目したいのは、話題が「私が正しかったかどうか」に終止している点です。

本来、発信者としてもっとも重要なのは representation、つまり相手を正しい情報と正しい表現で捉えているかという点です。

本ならば面白さを、製品ならその特徴を捉えられるかが問題となるのですが、あくまで「自分から見た」面白さや特徴を表現するところに、魔が忍び込むスキが生じます。

たとえば「自分から見た本の面白さ」に、おそろしく直接的にいうならば「私には理解できているのだけれどもみなさんはおそらく知らないのでは」や「おそらく著者もわかっていないと思うのですがこういうことなのですよ」といった「私」が余計な、そしておそらくどこか勘違いした言葉を挟みたくなる誘惑がやってくるのです。

これは、なにも意地悪だからこうしたことを考えるのではなく、作品や製品に対して理由のない引け目を感じていたり、自信がないときに虚勢を張った結果生まれるクセのようなものでもあります。

そこで、これは記事を書いて読み直す際の指針になるのですが:

・紹介した作品や製品よりも自分を上に置く表現(透明な「私」の主張)がどこかに混じっていないか

・紹介したことによって自分よりもその作品や製品がもっと知られてほしいという気持ちで書かれているか

というチェックを行うのは、紹介をもっと正直なものにしてくれますし、文章もこなれてよいものに仕上がる傾向があります。しゃしゃり出てくる「私」は読むときに余計なのですね。

なんなら、何かを紹介するブロガーたるもの、紹介した記事によって有名になりたい、評価されたいなどと思うのではなく、紹介された本や製品が有名になってくれた結果、周り巡って「あのとき、あの記事を書いたのは誰だったのか」と思い出されるくらいでいいのではないのかと、私は思うのです。

それがせめて、紹介する相手に対するフェアさではないのかと。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?