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それで、あなたはどんな贈り物をしたのか?

インフルエンサーという言葉がタイムラインで花火のように踊っていて、ときには面白い話題や、ときには言及するのも馬鹿らしい話が流れてくるたびに考えていることがあります。

ようするにそれは「与える以上に、誰かに与えられたい」という心理のあらわれの一つだろうということ。自分は一万人もの人の話に耳を傾けるつもりはない。でも、自分の言葉は一万人に届いてほしい。その一万人が自分に注目してほしい。なんなら十万人でも、二十万人でも。

これはネットが個人の情報インプットとアウトプットに大きなレバレッジをもたらした結果なので、よいことでもあります。注目すべき言葉やメッセージのある人に、大きなスケールが与えられる手段をわたしたちは手に入れたわけです。

でも、それをずっと自分のものにしておきたいと思うなら?

そうなると話はかわってきて、常に注目を集める話題を提供するか、才能で人を魅せるか、耳目を集めるかといったことにつながってきます。

そう、どこかでブレイクポイントがやってくるわけです。

そしてガス欠になってくると、中身がないのに「私には未来が見える」「私には才能がある」「私は面白い」という空手形ばかりが先行する。

ネットのスケールメリットを手放したくないなら、花火を上げ続けなければいけない。そういうことなのでしょう。いま起こっていることは、そうした潮目が可視化されたものなのでしょう。

でも他の方法があったら? 常になにかを与え続けることで、それを受け取る人が少しずつ増えてゆくという、逆の成長の道のりがあったら?

あなたは、受け取ってもらえるという希望もなしに、なにを与えんとしているのか?

拙著「知的生活の設計」では贈り物のように知らない人に情報発信をするという話題に振れましたが、このテーマは思った以上に深い場所に導いてくれそうな気がしています。

先日のYouTube Liveの終わりでもちょっとだけ触れましたが、もう少し体系だった頃にもう一度まとめて記事にしようかと思います。


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