映画レヴュー「名もなき生涯」ベルイマンやタルコフスキーやスコセッシの挑んだ神の沈黙、聖書の善悪からのダークナイトやハクソー・リッジ、ナチスからのカミュ、フーコー、ハンナアーレンまで語れそうな映画

堂々たるタイトルだが、あくまでそれらにちょっくら関与してるよねー程度の、おそらく僕の間違った思考や思想が多く見られるレビューになることを、まず逃げの姿勢で言っておきたい。というのもやはり私はカトリックではないし、西洋で育てないし、聖書も読み込んではいない。興味本位でキリスト教や旧約、新約ともに読んだり調べたりしたものの、理解して自分のものにする境地まで至っていない。むろん無神論者だ。これはあくまで、今まで映画が迫ってきた「神」についてと、映画で語られてきた「宗教」についての僕なりの所詮は感想である。

1.ストーリー

ナチスドイツの勢力下にある町でみんなが出兵していくなか、それでも一人だけ頑なにヒトラーに忠誠を誓うことを拒み続け、家族や自分が周りから酷い扱いを受け、やがて捕まり、一度忠誠を誓えばそれで助かる状況下に置かれながらもそれを拒み死を選んだ男の話。

前半は根性で何とかなるのはわかるのだが、後半は窮地に立たされすぎて自分なら完全に根負けしている。
彼は死刑になるか解放されるかの瀬戸際に立たされた際、殆どのナチス側の人間から
「一回言えばいいだけだから、こんなんは口約束だから!今だけだから!」
と言われる。
ここでわかるのはナチス側の人間もヒトラーを完全に崇拝していたり信仰している訳ではなく、権力構造上しかたなしにヒトラーと「契約」を交わしている訳だ。

このそれぞれの人間が悪なのではなくて、権力構造そのものに悪がはらむという構造は極めてフーコー的である。ナチを勧善懲悪として描くのではなく、「普通の人々」として描く。ハンナアーレントのような目線で一般人の罪を描く。傑作「ジョジョラビット」もこのやり方だったわけだが、これこそが「ホロコースト」を描くうえで誠実な在り方だと思う。そしてこの構造のおかげで、主人公は周りと異なる一種の「狂人」として際立つこととなる。狂気を孕んだ正義感に関していえば「ダークナイト」のバットマンや「ハクソーリッジ」の主人公を彷彿とさせる。上記ふたつとも、聖書や哲学に密接な関係を持つ作品であるのでより共通性がうかがえる。

彼らは自分たちの側へ誘導する際、主人公の神や善を絶対的なものではないと否定している訳だが、どちらかというとそんな彼らの方が現代のニヒリズムやらシニシズムやらリアリズムやらの思想や思考に近いのではないかと思う。彼らの言ってることに納得してしまう自分がいる、彼らの言説も一理あるのだ。いやむしろ現代では彼らのような考え方が普通だ。主人公が狂人である。そこがこの映画を日本人に難解なものにさせる。

テレンスマリックの映画は敬虔なクリスチャン的な西洋思想に根付いているので、日本人には分かりづらい描写や思想、思考が多く見られんじゃないかなぁと常々思っている。特にこの映画は顕著で、
オタキングの岡田斗司夫や町山智浩がダークナイトや沈黙を解説した時のような、西洋と日本の思想の差異を特にこの映画に感じたのだ。そんときも彼らはまずそれらの作品が日本人には理解しがたいものであると話していた。
これらはベルイマン、タルコフスキーなどが描いてきた神の沈黙や聖書における善悪についての映画にとても似ている。別監督の作品になるが、一番似てるなぁと思ったのがマーティンスコセッシの「沈黙」。

沈黙では敬虔なクリスチャンの司祭が日本で酷い罰を受け、一番位の高い自分が神を否定しないばかりに仲間を次々に殺されていく絶望を描いているのだが、そこでも日本人側から出てきた言葉が
「一回言えばいいだけだから、こんなんは口約束だから!今だけだから!」
と構造上のみの表面的な契約を何度も懇願する。
そしてこれを言わないばかりに犠牲になるのは周りの人間である。最終的に沢山の人間が犠牲になる。
西洋思想に疎かった自分からしてみれば、「はよ、妥協してまえよ!周りも口でだけ言えばいいって言ってんじゃん!一回言うだけだよ、それで周りの大切な人もお前も助かるんだよ!」と思いながらみていた。
なぜ彼はギリギリまで契約を交わさなかったのか。

ここで西洋の善と悪について「ダークナイト」を例にとる。
ダークナイトのジョーカーはサタンそのものである。
彼はあらゆる誘惑を用いて人を悪の道に陥れようとする。彼の「文明人なんてのは顔の皮一枚剥がせば野蛮人そのものさ。極限状態に陥れば、平気で醜いことをする」というセリフはサタンの思想そのもので、サタンというのは人間に絶望的なシチュエーションを用意して、君が俺と契約を交わせば君は助かるよ、と囁く。
ここで彼と契約を交わしたハービーデントは「ツーフェイス」という化け物に変貌していった。
ここで大事なのが「契約」を交わせば自分自身が気づかない間に化け物に変貌してしまうということ。
表面上でもなんでも、口先だけでも「契約」を交わしてしまうと、自分の心の中に「サタン」が漬け込んで気づかない間に自分も化物のような行動に出てしまうという恐ろしさを物語っている。日本的にいうと「言霊」がその人の人格を形成してしまうということに似ているのだろうか。

だから敬虔なカトリックというのはあれほどまでにストイックなのだ。神は常に見ているから、ほんの少しのウソも吐けない。吐いたとたんに自分は罪深い悪魔だ。「神の沈黙」というすべての苦難は神からの試練であるという考えも究極のマゾヒズム的なストイックさだ。その厳しさと神との葛藤や憎しみなどがタルコフスキーやベルイマン作品の根幹にある。

だから彼らは折れない。(沈黙は折れちゃうけどね。)
そういう意味で本作の主人公は、ダークナイトのバッドマン(ジョーカーを殺さない)やハクソー・リッジの主人公(戦争で人を殺さない)のようにヒーローそのものであるのだ。生き方を曲げないことこそが善であることを体現している。たしかに、キリスト教がすべて正しいとは全き思えないが、彼のように折れない人間が少数でもいてくれて抵抗してくれたお陰で悲劇は収束したのだろうし、彼のような精神が多くの人の心に根付いていたのならそもそも悲劇は起きなかったのではないかとも思う。
(ここで宗教の重要性とは個々人の道徳性の向上であり、現代も全く不必要なものではないどころか誰もが持つべきものだあることが理解できる)

不条理を受け入れながらも信念に基づいて死んでいくのは、カミュやサルトルなどの実存主義が影響しているかのように思う。少なくとも、この時代に信念を曲げない、悪に屈しないというのはある種実存主義そのものではないだろうか?人間が非道を極めた時代に、死と隣り合わせだった彼らの思想は悲観的で厭世観を極めるが、その精神と信念の頑強さは他の追随を許さぬ境地に感じる。おそらく同時代の、ナチにあらがった各思想家の伝記を映画化してみれば、その根底に流れるものの共通性を実感できるだろう。

上記より気がついたことは、聖書というのは西洋のあらゆる哲学やら思想から芸術、映画、文学、音楽などのあらゆるカルチャーに未だに深く深く根付いているのだなぁということ。そして聖書を紐解いていくだけでもあらゆるカルチャーが顔を出してくるし、やはり学ぶ価値はあるなあということ。映画というのはそれらの正しい使い方や考え方、時に間違った考え方や使い方をいろいろと教えてくれる。聖書とかギリシャ神話がわからなきゃ西洋思想はわからないの>しんどくない?と思う方もたくさんいると思うが、逆にそのふたつがなんとなくわかれば海外のカルチャーへの距離感がぐっと近くなり、簡単に理解できるようになるものがたくさんあるということ、そんなとてつもないツールであることを理解していただきたい。

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