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出会いと別れについて

「さよならだけが人生だ」
出会いと別れを繰り返すたびに、井伏鱒二が訳した有名な一文が頭をかすめる。

しかし、「さよならだけが人生ならば 人生なんかいりません」と言ったのは寺山修司だったか。

初めからさよならを想定して出会う人間はいない。
卒業や退職など、新たな門出を祝い、再会が確約されている別れならまだ分かる。

けれど、恋人や友人とのお別れは世界で最も大切な人が世界の果てまで飛んでいってしまうような一大事なのだから、できればさよならなんてしたくないだろう。

付き合っていなかったら親友になれた人とか、告白がゴールだった人とか、とにかく人生には何かと理由をつけて会えなくなってしまった人が多すぎる。

私の場合は自分の住んでいる街を悲しい思い出の街にしたくなくて、不穏な空気を感じると話し合いの場を井の頭公園に設定し、悲しみを集約させようとしてしまう悪癖(?)すらある。

そんな別れと出会いについてばかり考えていたとき、吉本由美さんの「さよならは恋の終わりではなく」という1冊の短編小説に出会った。

 人はいつか本当の愛に出逢うことを夢見ながら、出逢いと別れを繰り返す。「さよなら」は別れの瞬間をいうのではなく、そこから立ち直るまでのことをいうのかもしれない

この作品を読んで、さよならの恩恵を受け取れて初めて成仏する気持ち、に気付く。

例えば、恋人と別れても恋人の愛するものは残り、それをまたまっさらな状態で愛せたとき。
その人が残してくれた恩恵なのだと認識できたとき。
別れは成仏していく。

大切な人とのさよならは自分をその場に留めてしまうような感覚がある。

私はしょっちゅう旅をしているので、旅先での出会いと別れも多い。

しかし、不思議と旅先で悲観的な気持ちにならないのは、きっと縁があればまたフラッと会えると思っていて、さよならがもたらしてくれる糧についても知っているからだろう。

それでもどうしようもなく孤独なときに思い出すのは、江國香織さんの「神様のボート」の一節だ。

 心というのは、その人のいたいと思う場所につねにいる

仮にいま悲しみの底にいても、出会いを信じられなくても、或いは前を向き始めていても、心は常にたゆたっていて、さよならを選んだその人の望むべき場所にある。

刹那主義な人間の主観的な意見ではあるけれど、私はそう信じている。

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