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通勤バスのフラテルニテ

 プシューッという音とともにバスの扉が開くと、車が止まる前からバスにへばりついて車体をバンバン叩いたりしていた男子高校生たちが我先にとバスに乗り込む。その様はラグビーの試合か、なにかの祭りを見ているようだ。日本の通勤ラッシュと同じくらいの人口密度なのに誰一人並ばないので、乗車口近辺は混沌とした状態になる。モロッコおやじたちは、若くて生きのいい奴らにはかなわんとばかりに人ごみの後ろであきらめ顔で突っ立っているだけだ。僕もその例に漏れない。
 しかし、彼らの席取り合戦に勇敢に立ち向かう者がいる。それはモロッコおばちゃんだ。青や黄色のジュラバを纏ったおばちゃんはとても太っていて、ドラえもん、あるいは樽のようだ。生物学上の法則に従って、おばちゃんたちの動きは緩慢としている。学生たちの機動力には到底かなわない。しかし、おばちゃんが一旦乗車口に取り付いてしまうとその大きな尻で入口にふたをしてしまい、もはや学生たちとて侵入することが出来ないのだ。ここでは防御こそが最大の攻撃である。
 さて、熾烈な席取り合戦をくぐり抜けてバスに乗った後もいろいろな人たちが乗り込んでくる。
 意外なことに、あれだけ席取りに熱心だった学生が、よたよた歩くおじいさんなどが乗ってくると何も言わずに席をどいて譲る。おじいさんの方もありがとうの言葉すらなく、相手の方を見ることすらなく、はじめからその席が空いていたかのように席に座る。
 また、路線上に病院があるせいか、体の不自由な人も多い。松葉杖をつく者、目の見えない人、車いすの人・・・。モロッコにはノンステップバスなんて物は存在しないので、彼らが乗り込むには誰かが手助けしてあげなければならない。日本であればここで何となく牽制する雰囲気となるのが常なのだが、ここでも彼らの隣や後ろに並んでいる人が当たり前のように介助する。本当に自然に当たり前にオートマチックに・・・。
 バスの作りは全然バリアフリーなんかでないのだが、ここにはバリアはほとんど存在しないと言っていい。それに対して、設備なり装置なりを使って障害者や高齢者の自立を実現しようとするのは、実は危ういものには触りたくないという心理が働いているのではないか。そう言う便利さの中では、健常者と障害者・高齢者は同じ社会にあって別々の社会に暮らしているような断絶があるように思う。
 そんなことを考えながら、紫色の花をいっぱいに咲かせたジャガランダの並木が車窓を流れていくのを眺めていると、今度はバンジョーを持ったおじいさんが乗り込んで来て弾き語りを始めた。予言者ムハンマドのことを歌っているらしい。乗客たちは次々に小銭を渡す。なかなかいい演奏なので心付けを渡したいのだが、僕はいつも渡しそびれてしまう。運転席の脇にいつも陣取っている知的障害の青年もおじいさんの演奏にごきげんだ。顔を歪ませて笑っている。
 今日もいろんな人を乗せてバスは朝日にきらきら輝くメディナへと下っていく。

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