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運動が嫌いな私がどうしても東京五輪を許せないわけ

以下は私が某ウェブメディアに書くつもりだった、アンチ東京五輪記事の冒頭部分である。開催前のゴタゴタを見て、この調子なら開会式の後も反五輪世論は盛り上がり続けるから記事発表はそれからでもいいかと甘い見通しを立てていた。しかし、テレビや新聞が本気を出したときのプロパガンダ能力はおそろしい。

日本の○○選手が金だか玉だかを取りました云々と、朝から晩までアホみたいに礼賛報道が続くせいで、もはやアンチ五輪記事を発表しても旗色が悪そうな気配である。

私は五輪が大嫌いだが、いっぽうでプロのライターなので、際どい原稿の扱いには慎重だ。時機を逸した内容ゆえにバズる期待値が低いのに、炎上リスクばかりが高い文章を商業媒体に寄稿して原稿料を得るのは、自分の職業倫理に反する。なので、掲載内容について自分が責任を取れるnoteに転載しておくことにした。

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■諸君、私は体育と体育会系が嫌いだ

ついに東京オリンピックが始まってしまった。事情を知る人の間では有名な話だが、私は体育と体育会系の人間が大嫌いである。

そもそも、私は学生時代を通じてスポーツテストの学年最下位レースの常連だった運動音痴界のエリートだ。たとえば過去39年間の人生を通じて、「逆上がり」「一輪車」「あやとび」「雲梯で2回以上進む」「50m走で8秒を切る」「ボールを12m以上前に投げる」「ドッジボールで敵にボールを当てる」「バスケやサッカーでゴールを決める」などの運動を一度もできた経験がない。中学2年の冬には跳び箱4段が跳べずに右腕を骨折した。

それだけならば別に大した問題ではない。深刻なのは、前世紀末の田舎(滋賀県神崎郡)の公立小中高校において、こういう人間が極めて過酷な運命を強いられるということである。

とりあえず同級生のサッカー部員たちの振る舞いは、3年前のW杯のときにこちらの記事で書いた。だが、体育の現場にはもっとたちの悪い強大な迫害者が存在した。それはスポーツ指導者を兼任する教員たちだった。

■骨折するのは痛いから嫌です

右腕骨折からようやく回復した次の授業では、体育教官から「できて当然」だから跳び箱4段を再び跳べと命じられた。しかし跳ぶ方法がわからないし、もう一度腕を折りたくないので拒否したところ、お前は無気力だふざけた人間だと他の生徒の前で怒鳴り散らされるハメになった。

また、同じく中学生時代に体育系の部活(卓球部)を辞めたいと申し出たときには、顧問から6時間も立たされっぱなしで罵倒され、テストでは90点近い点数を取っているのに彼の担当教科の成績を10段階評価で6にされた──。

これらは中学時代の経験のごく一部である。ちなみに後者の卓球部顧問の担当教科は「国語」だった(よくもまあ)。

■字が汚いやつは書道の成績が悪いだけで済むのに

そもそも、先天的な能力の欠如を理由に、特定の教科の成績が自動的に下落する日本の公立校のシステム自体、たいへん差別的で問題だと思う。しかし同じ先天的な能力欠落者でも、音痴なやつ、字が汚いやつ、絵がヘタなやつなどは、音楽や書道や美術の成績が悪くなるだけで済む。

しかし、運動ができないやつは成績のみならず人間の尊厳まで否定されるのである。さらに中学校のスポーツ指導者(=教員)は内申書も握っているので、「全面的に劣った人間」としての評価は未来の自分の人生にも影響する。これを理不尽と言わず、なんと言えばいいのか。

小中高校12年間を通じた実体験の積み重ねにもとづく限り、私が理解する「日本の体育」は、弱者への差別や人権無視の思想と密接に結びついている。憎むべき邪悪な行為にほかならない。

■五輪開催という「この世の悪夢」

もちろん、私とて野球観戦は好きだったりスキーが滑れたりと、一部には「好き」だったり「得意」だったりするスポーツもある。

最近は人前に出る機会が多いので、パーソナルジムに行って筋トレを続けて半年で体重を10キロ落とした。取材には腕っぷしも必要なので、現在は南米某国の格闘家が経営するジムで総合格闘技を習ったりもしている。しかし、それでも基本的にスポーツは嫌いだ。

現在、業務上の必要からジムに通うなかで、わざわざ外国人のジムを選んだ理由も、日本人の体育ができるやつにカネを払いたくないという心理が関係している(そもそも現代の成人男性の社会で、太った人間や鍛えていない人間がなんとなく見下される風潮それ自体、非常に忌々しいものだと思う)。

ゆえに当然、W杯もオリンピックも大嫌いだ。従来、この手のイベントの開催時期の私は、さながら全体主義体制のディストピア社会で暮らす自由主義者のごとく、ひたすら嵐が過ぎることを願い世を憚って生きることを常としてきた。

自分の街で「体育」の祭り(五輪)が開かれる。「体育」ができるやつらがでかい顔をしてはしゃぎ回る。そこに自分払った税金が投入されている──。東京五輪の開催という現今の悲劇は、私にとってこの世の悪夢以外の何物でもない。

■東アジア反五輪武装戦線アンチ体育派

──と、長々と書いたのは、自分の立場を明確にする目的ゆえだ。国家イベントである東京オリンピックについては、それを批判的に論じる行為自体が強い政治性を帯びる。また、一口にアンチ東京五輪といっても、主たる目的によって以下のような各派が存在しており、それぞれ立場が大きく違う。

・菅政権や自民党を批判したい人
・●通やパ●ナなどの企業への嫌悪感や、反資本主義的な思想を抱く人
・開会式の騒動に代表される「ダサい」運営体制に不満を持つ人

・新型コロナウイルスの感染拡大や医療崩壊を憂う人

これらの各派は基本的に、自己の政治主張の補強や、理想の五輪と現実との乖離への違和感を理由に東京五輪への異議を唱えている。そのため、各派それぞれ「(現在の状況は)アスリートのためになっていない」「五輪精神を冒涜している」といったロジックを好んで用いている。

だが、私は彼らとは違う。私の立場は「体育が嫌いな人」なのだ。

唯物主義を奉じる共産主義者が、教会や聖職者に対して何ら価値を覚えないのと同じく、私はオリンピックやスポーツやアスリートに特別な価値を感じていない。ゆえに、「アスリートファースト」だの「スポーツでひとつになる世界」だの「五輪の精神」だのという意味不明な共同幻想の枠組みと、そこから生まれるスローガンについても、まったく受け入れる気がない。

私が以下に記すのは、オリンピックに敬意や配慮を払わない人間の立場からの、東京五輪についての批判的論評である。

■帝国主義と不平等条約

いざ競技が本格的にはじまり、テレビ報道が五輪一色になると、世間にはさっそく「もう許した」という非論理的な同調圧力が生まれてきた。しかし、これまで指摘されてきた問題は本質的になにも変わっていない。

当初に喧伝された震災復興やコロナへの勝利どころか、(建前のきれいごとを抜きにすれば五輪開催の本来の目的であった)カネ儲けや景気浮揚にも、あまり役に立ちそうにない。国威の発揚にもつながらない。往年の戦艦大和を上回る無用の長物だ。

莫大な税金を浪費して、空港施設や地方行政や医療現場を疲弊させるばかりの大騒ぎを、都内のコロナ感染者数が連日1000人以上を記録するさなかに強行するのは、控えめに言ってもどうかしている。

そもそも、まず悪いのはIOCとバッハ会長と森安倍菅(未完)

■アスリートを全人格的に礼賛するのはやめよう

■「アスリートファースト」の暴力性

■日本社会の問題点は海外メディアにチクって解決しよう

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……以上、原稿は未完に終わった(なので、すでに執筆したぶんだけ、ここにタダで載せておく)。

冒頭部分で自分が言いたいことをかなり言ってしまったうえ、その後に続くIOCの悪口だの中抜き批判だのは言わずもがなの話であり、途中で書く気がなくなってしまったのだ。なにより、大会が開催されてしまった現在はやや時機を失した話題でもある。

■noteなので多少、好き勝手を書く

ただ、日本人アスリート批判はぜひ詳しく論じたかった。しかし、こちらについてはよほどマイルドな表現を使わないと商業媒体に載らない可能性が高いため、やはりお蔵入りのリスクがつきまとう。

すくなくとも、掲載されるには記事中で「アスリートへの敬意」なるおべっかを表面上は示し続ける必要がある。また五輪の開催期間中は「頑張っている彼らのモチベーションを下げるから」と発表の延期も考慮しなくてはならない。しかし、私は彼らにそんな配慮を示したくない。

今回の五輪に参加する日本人アスリートの圧倒的多数は、コロナを拡散させて人が死ぬかもしれないイベントに主役として関係しているにもかかわらず、問題を憂うメッセージをほとんど発信しないで、「感動を与える」「競技に全力を尽くす」といった思考停止的な言葉ばかりを連呼していた無責任な人たちだ(大会名誉総裁の天皇陛下ですら憂慮をほのめかされたのに)。

彼らは、政治家と利権業界がつくった問題だらけの体制を実質的に翼賛していると言われても仕方がない。常に長いものに巻かれて上位者の意向に盲従する、精神の自立性に欠けた、中身がからっぽの埴輪のような人たちではないか。スポーツ技術についてはさておき、自由民たる近代市民として、人格的に尊敬できる要素はゼロである。

また、例のコーネリアス騒動でいじめ問題がピックアップされたことは記憶に新しい。しかし、当のアスリートたちや、その指導者や組織委のえらいさん連中にしても、過去に「日本の体育」に関係するなかで、例の騒動と同レベルのひどい虐待行為に関係していた人間は間違いなく存在する。すくなくとも、目の前で起きていたその手の問題を容認・黙認してきたアスリートは、むしろ多数派なくらいではないのか。

なぜ、そんな人たちにおしなべて敬意を示さなくてはならないのだろうか。「アスリートファースト」だのなんだのと特別扱いして、過剰に甘やかす必要がどこにあるのか。私にはさっぱり理解ができない。

■亡命不可能、プロパガンダ漬け

東京オリンピックが嫌である。とにかく報道に触れたくないのに、テレビも新聞も五輪の話ばかりだ。それらから逃れようとしても、スマホに速報が表示され否応がなしにゴリ押しがおこなわれる。もともと、2020年時点では五輪期間中は海外に亡命する計画だったが、コロナ禍のせいでそれも不可能だ。

ゴリ押しを受けるたびに腹が立つので、ツイッターに五輪や日本人アスリートへの罵倒を書き込んでウサを晴らしたくもなる(というか実際にガンガン書き込んでいる)。しかし、今度はそのたびに自分の人相が悪くなる。

筋金入りの体育嫌いの反五輪主義者にとって、昨今の日々は精神衛生上における悪影響があまりにも大きい。とにかく、一日も早くこの日々が終わってほしい。来たるべきその日まで、私はひたすら隠遁の暮らしを送るしかないと考えている。

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