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1995年のバックパッカー 3 韓国1

翌朝6時に起床を知らせる電灯がついた。

2等船室に雑魚寝していた韓国の人々は、起床直後だというのに大きな声で会話を始めている。地声が大きいのか、母国への到着がよほど嬉しかったのか、とにかく彼らの朝の第一声は明るく大きかった。僕は手際良く寝具を片付けると、その会話の響きから逃れるようにデッキへと上がった。


4月の初旬の朝6時はまだ薄暗く、未明の空と海とのグラデーションを特に美しいと感じることもなく、ただぼんやりと眺めていた。起きたてでも機能する性欲とは違い、美しさへの感動はちょっと遅れてやってくる。それは生きる上で必要な物事の順番通りであった。
セマウル号はすでに釜山港の目の前に浮かんでいた。入港しないのは、港がまだ寝ぼけているからだろう。そう、まだ一日は始まっていなことになっていた。

船内の朝食は6時半から始まった。


460円の和定食の味噌汁がキムチ味だった。今なら発酵+発酵で、健康的だと喜ぶかもしれないが、当時はただ妙だった。

下船はスムーズで、ユーラシア大陸の端に降り立った時はそれなりに感慨があったかもしれないが、日記には何もない。おそらく30キロの荷物の方が気がかりだったのだろう。

港から街へと一歩出ると、ハングル語しかない看板に軽く絶望した。日本語ではカタカナに相当するらしいが、いっそ意味がわかる漢字であってほしかった。節約するためにソウル行きの長距離バスに乗ろうとバスターミナルを目指していたが、手がかりすら掴めない。行けばなんとかなるだろうと、地図すら持っていなかった。もちろんスマホなんてない時代だ。グーグルマップはまだ未来の発明品だった。

それに加え30キロの荷物に滅入っていた。縮んだ身長のまま、右往左往していると地下鉄の入口を見つけ、隣りの釜山駅へ向かった。チケットをどうやって買ったのか分からない。セマウル号船内で両替をしておいたのだろう。

釜山駅に着くと、もはや長距離バス移動は諦めていた。とにかくソウル行きに乗ってしまえば、値段が少しぐらい高くても数時間後には到着できる。僕はそっちを選んだ。
有人のチケット売り場で、ソウル行きの高速電車のチケットをどうにか手に入れた。スタンダードクラスを頼んだはずだが、ファーストクラスのチケットを渡されたが、値段にして600円の差だったので、まあいいかと受け入れた。
だが、さらに出発時間がおかしかった。まだ10時前だというのに、それには16時発と印刷されていた。改札にいた駅のスタッフにチケットを見せつつ身振りで説明すると、チケット売り場の列の先頭に案内され、10時発の列車に変更してくれた。


韓国高速の車内は日本の新幹線とあまり変わらないが、前後のシートの間隔がゆったりとってあった。ファーストクラスだったからかもしれない。
隣りには兵役中と思われる軍服姿の青年が座っていた。自分がもし韓国人だったら彼と同じように軍服を着ていたはずだ。二十代の数年を軍人として過ごすという人生はどんなだろう。体育系短大のさらに厳格なもの、確実にそれ以上大変に違いないが、うまく想像できなかった。とにかく隣国には兵役があって、こちらにはない。その差は結構大きいと思えた。


車内で聞こえてくる言葉は韓国語だけであった。あらためて外国に来たのだなと実感した。日本を出発してわずか一夜明けただけだが、確実にここは日本ではない。窓の外に見られる街や村、田園やビルや教会。それらは日本と似て非なる物だった。その差が少なかったからこそ、逆にリアルに外国を感じられた。


韓国高速は、約4時間後にソウル駅に到着した。ちなみに時が過ぎた2024年には2時間ちょっとで到着することになる。

駅の構内を出ると、やはり30キロが邪魔に思えた。これは再考だななどと考える余裕もなかった。世界一周へと意気揚々と出たはずが、たかが荷物の重さに気分を左右されるとは思わなかった。どんなに重かったとしても、駅やバス停と宿泊場所の間を移動する時限定の重さだと考えていたが、これが甘かった。

到着した街では、なるべく安くて清潔な宿を求めて彷徨うことになる。つまり結構歩かなくてはいけないのだ。これは盲点だった。

ソウル駅周辺は、日本で言えば東京都駅周辺に当たる。つまり高級ホテルこそあれ、安宿なんて徒歩圏にはないし、あってもあらかじめ知っておかなかれば、やたらと歩き続けることになる。

僕は学生の頃から登山に熱中したこともあり、背負うことに関してはそこそこ自信があった。だが、それは山岳地帯という環境でこそ耐えられた重さだった。そこでは誰しも腰を追って、身長を縮めて歩くしかなかったので、自分も淡々とこなせた。

だが、大都会で普通の服を着て、30キロを背負って歩くのは周囲に溶け込めず、なんだか一人だけ罰ゲームのようで楽しくなかった。
さっさとこいつを降ろしてぶらぶらしたい。そればかりを考えていたので、ソウル駅から歩き出して最初に見えたソウルプラザホテルに吸い込まれるように入っていった。まあ、高いだろうなとは予測できたが、2泊で58000円はさすがにだめだった。

再び30キロと共に出たらめに歩いていくと、アステリアホテルというのを見つけた。それでも一泊五千円ほどはしたが、初日だし、明日以降の宿はゆっくりこれから足で探すことにして、泊まることにした。アゴダやホテルドットコムなんてない時代だ。その前にスマホがないのだから仕方がない。せめて「地球の歩き方」で調べておくべきだったと少し悔いた。そもそも「現地でなんとかする」というのをやりたかったというのもあった。

身軽になると、さっそく街を歩いた。



明洞をぶらぶらして、夕食は適当な店でカルビを食べた。たまたま入ったその店はカップルが多く、デート向けというよりは普段使いのカジュアルな店で、勝手な推測だが、長い付き合いの気心知れた二人が通うような店に思えた。

しかし、多くのカップルが小さめなテーブルに向かい合い、黙々と肉とキムチを食べている姿は、なんだか艶かしかった。小説家の吉行淳之介は、寝たこともない女と面と向かって飯なんて恥ずかしくて食えない、というようなことを確か言っていたが、焼き肉とキムチを食べた後の彼らは、きっとすごいことになるんだろうなと連想した。
一人客は僕ぐらいだった。感じのいい店のおばさんがハサミで軽快にカルビを切ってくれた。


部屋に戻ると、ソナさんに電話をした。

実家なので、最初兄弟が受話器を取った。まるっきりハングル語ができない僕は、「もしもし」と日本語で言うしかなかった。するとその兄弟は、そばにいる家族に「もしもしって電話かかって来たけど、これソナの知り合いじゃないか?」というようなことを伝えている様子だった。

「もしもし、藤代さん?」ちょうど家にいたソナさんが受話器をかわった。
彼女とは日本で仕事を一緒にして以来であった。韓国人のミュージシャンのCDジャケット撮影の仕事で、ソナさんは通訳か何かだったと思う。いや、スタイリストだったかもしれない、
撮影は、おそらく1、2泊の短いものだったが、僕たちはなぜか意気投合し、夜は僕の部屋で2人だけで飲み、なんとなくそういう関係になってしまった。

その後のことは覚えていないのだが、今回の旅で会えたらいいなと思っていた。そして、僕たちは翌日の夜に会う約束をした。

翌朝は10時に目覚めた。移動で疲れていたのだろう。いつもはもう少し早く起きる。出かけようとロビーに下りていくと、ちょうど受付にソナさんから電話が入ったところだった。

受付の女性から受話器を受け取ると、18時半に、三省(サムスン)のインターコンチネンタルホテルをソナさんは指定してきた。まさかの高級ホテル集合である。東京からの客に失礼のないようにというソナさんの気遣いを感じたが、もはや僕は5つ星ホテルのラウンジで待ち合わせをするような人間ではないことを自覚していた。ビジネスホテルでさえも躊躇するようなバックパッカーとしての旅が始まったばかりであった。

その日は、市役所裏のユニバーサル旅行社へ、仁川と天津間の国際フェリーのチケットを買いに行った。一番安いチケットは学生の大口が入ったために売り切れだった。
出発は4日後の月曜日になった。それまでにソウルをもう少し見てから仁川に移動するとして、ちょうどいい日数に思えた。

その日は、観光をした。
徳寿宮、景福宮を訪れると、結婚の前撮りをしているカップルが多くいた。ウエディングカメラマンの人たちが、手際良く指示を出している様子を見ながら、自分もちょっと前まではプロのカメラマンとして、ああやって働いていたんだなあと不思議な気がした。いつかまた写真を撮る仕事に戻るのだろうか。その疑問には返事がなかった。


ソウルにやって来たのは1つはっきりとした目的があった。

私の母の出生地は戸籍上で京城である。戦時中の日本統治下でソウルは京城と呼ばれていた。私は母の生まれ故郷を訪ねてみたかったのだ。
終戦時、母はまだ歩き始めたばかりだった。帰国への引き上げ時に、港で祖父母は母を見失いかけたらしい。歩けた分、ちょっと目を離した隙に迷いそうになったのだ。もちろんそのまま帰国できなければ、今の僕は存在していないだろう。母が歩き始めるまでの間、揺藍期に母を育んでくれた京城、ソウルへは、お礼を込めて訪れたかったのだ。

あいにく母には京城の記憶がない。つまり僕には母の面影を辿れるような確固とした場所がなかった。おそらく有名な観光地ならば祖父母に抱かれて訪れたかもしれない。今僕がそこに行けば、時間を超えて幼い頃のは母の横に立てるかもしれない。僕はそんなふうに考えて、徳寿宮、景福宮を選んだ。

今は亡き祖父母の腕に抱かれていた母の面影をその場所に想像した。まだ二十代の祖父母。激動の時代に、はじめての子と共に慣れない土地に立つ祖父の心はどんなだっただろう。夫として、父として、彼がその時に感じていたこと。満州に暮らし、韓国を経て帰国する祖父母と母の軌跡。今自分がこうして旅に出たことも何か関係があるような気がした。

ヨンさんは約束の時間より少し遅れてやってきた。5キロ太ったと恥ずかしそうにしていたが、そんな風には見えなかった。相変わらず綺麗だった。焼き肉とキムチを食べたら、まずいのではないかと思った。


 

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