義理と侠と

    義理とは別の言葉にすると道理でしょうか?義理人情の義ですが、そもそも義と言う字は我を美しくする降るまあから来ていると考えています‼️理とは(ことわり)本来の意味は文字の発生からすれば己を美しくすることわりや振る舞いを指しているのでしょう‼️これは解字の上からの解釈ですが、言葉は生き物で絶えず変化していますし、言葉来るイメージやニュアンスまで含めると解釈はバラバラになってしまいそうです。ラングとパロールと言った区別を初めて提唱したのはソシュールですが、これはあくまで言語学的な視点にすぎません。社会や共同体のなかに置いて生きた言葉の実態となるともうとらえどころのないものに思えます❗️
     侠とは何でしょう❓️日本でよくみられるのは任侠のおじさんがたに見られる義侠心をベースにした共同体の中の正義のような、外人さんに端的にこれを説明するのは難しいと思います❗️違ったもののように見えて実はその根底にあるものは同じではないでしょうか?義理も侠も法家思想からすれば相容れない存在で法秩序とは原理が違う気がします❗️公明正大や公正さを尊びはしません。しかし共同体の防衛の意味からすれば非常に有意義なのは解ります❗️何故かと言うと現行法は所詮ヨーロッパからの外来種なので根本的にはもとからある倫理である義理と侠とは相容れないと思えます。日本の古来からある、しかも民間の上からの理不尽な権力の行使から共同体の防衛のためのメカニズムであったと考えています❗️所謂日本人のプリンシプルではないかと僕は考えています‼️明治まで鎖国していたのに明治になっていきなり西洋風が入ってきたので混乱は大変なものではなかったかと思います‼️江戸時代の日本人は共同体を抜けるには死ぬしかなかったのです🎵よそもんが入っていくのも大変な苦労を強いたのも用意に想像が着きます❗️入るのも出るのも大変なのではなかったかと思われます‼️同じ日本人などと言う視点は不可能に近く、村ごとに郷ごとに閉鎖的にならざる終えなかったのではないでしょうか?西洋の理念と大きく違う体質ではないでしょうかと考えています‼️
    日本人が純朴でテレビもラジオもインターネットさえない時代には有効に機能していたかもしれないが、情報化の時代にあわせるように義理も侠も変化せざるを得ません。それは仕方がない事でしょう❗️昭和の任侠映画を懐かしんでも今とは違うと言うことも仕方がないかと考えます‼️義理人情といった意見や思いをやり取りしあうことなくなってはもはや人間のすることではなくなります❗️それと神様との兼ね合いもまた思慮に入れなければならないこともあります‼️共同体に神仏の働きがあるのは疑う余地のないことです❗️どかの村落にも寺社があり墓があります‼️合理主義だけでは説明が着かないと思えるのです❗️
    いじめの問題も社会にはインテリもいれば外人もいる❗️任侠の勇み肌のお兄さんもいれば警察もいるしとまぜこぜですな❗️これでは混乱しないのはさすが日本人です❗️うまい具合に住み分けしています❗️学校と言うのは社会の縮図でもあるのです❗️金持ちもいれば貧乏人もいる❗️キリスト教も仏教も神道も少数ですがイスラム教もその他新興宗教も色々です🎵宗教も人がいきる上で必要です。そんな中で先生たちのご苦労も大変ですね❗️共同体の崩壊とは学校の場合は学級崩壊でしょうか?教育関係者でないのでよくわからないのですがひとつ間違うと義理の神様の怒りに触れて悲惨なことになった学校も多々あると聞いています❗️学校はアメリカ以上の坩堝なのかもしれませんね❗️桑原‼️桑原❗️    

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