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ルソーの来歴(超圧縮)

この記事は、ルソーの著作についての記事を読むための最低限必要な情報のみをまとめたものとなっている。
全てWikipediaに書いてある内容であるため、表層しか攫っていない。

ルソーの生涯

Wikipediaを読めばわかるため、雑駁に圧縮する。
ジャン=ジャック・ルソーは1712年6月28日、スイスのジュネーヴのグラン・リュ街というアップタウンにて生を受ける。
ルソーの少年時代は悲惨なものだった。小さい頃は病弱で、10歳の時に孤児同然になる。寄宿先や奉公先では虐待を受け続けたため、悪事を働くようになるものの、本の虫であることが変わることはなかった。1728年に15歳で出奔し、独り身になっていた金持ちなヴァランス夫人(当時29歳)と邂逅。その際の自叙伝が面白いため、添付しておく。

そしてカトリック改宗の後、様々な職種を試したが、ルソーがあまりにもクズだったため定職つくことは叶わなかった。その間ルソーを援助していた助任司祭の話は第四編で語られることになる
1729年にまたしても夫人の元に戻ることに。ルソーは夫人を「ママン」と呼んでいた。ルソーには母親がいなかったようだ。(Wikipediaにて義母の存在は触れられていない)夫人はルソーを学校に入れた。しかし、学業は長続きしなかった。それほどにルソーは夫人と離れたくなかったようだ。
その後、ルソーが不在のタイミングで夫人が離れてしまったが、壮絶な経験を経て1731年9月に再開することになる。そして、ルソーと夫人は関係を持つことになる。初めての経験について認められた自叙伝を紹介する。

「わたくしははじめて女性の腕に抱かれた。熱愛する女性の腕に抱かれていたのだ。わたくしは幸福であったであろうか。そうではなかった。わたくしはあたかも近親相姦を犯したような気持ちであった。」

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その後紆余曲折あり瀕死になったため、農村に移って読書に没頭する。
そこで哲学、幾何学、ラテン語を習得し、研鑽を怠ることはなかった。この時期は生涯で最も幸福な時期だったという。
1737年のこと。そんな折に、夫人が別に愛人を持っていることが発覚する。ルソーは独立を決心する。1740年、リヨンで家庭教師をする。ここでエミールの構想が始まる。しかし、悪事がバレて職を失う。紆余曲折あり、パリで職を転々とする。そして件の女中テレーズ・ルヴァスールと邂逅。二人は「決して捨てないし結婚もしない」という条件で生涯添い遂げるが、間にできた子供を5人捨てることになる。
その後、友人の勧めもあり、ディジョン科学アカデミーの懸賞論文公募にて応募した論文「学問芸術論」がバズる。雑誌の広告で論文公募を知った際のルソーの反応を紹介する。

ルソーに突然の閃きが生じて、三十分にわたり精神が高揚して動けなくなってしまったという。ルソーはこのときの感想を「これを読んだ瞬間、わたくしは他の世界を見た。わたくしは他の人間になってしまった。」と述べている。

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有名になり、著作、音楽作品の創作に傾倒する。
そして、再び開催されたアカデミーの論文公募に「人間不平等起源論」を応募。内容が内容であり、後にフランス革命につながることになる。
1756年にモンモランシーという田舎に居を移す。森を散歩しながらエミールの中核部分を執筆する。そこで浮気をおこしたため住まいを追い出されるが、モンモランシーには留まる。意見の食い違いで友人や多数の啓蒙思想家と絶縁状態となる。社会契約論やエミールを出版する。第四編がパリ大学神学部の怒りを買い、断罪される。逮捕状が出たため亡命と迫害を繰り返し、ルソーに心酔していたヒュームと共にロンドンへ亡命。国王からも歓待を受ける。ヒュームはルソーを熱烈に支持したが、ルソーはヒュームに絶交を宣言する。迫害に次ぐ迫害を受けていた当時のルソーは、統合失調のような状態だったという。晩年、パリに戻るが逮捕状が有効だったため、知人の城で隠居する。常に暗殺を恐れるほど精神錯乱状態だったとされる。方々を転々と旅し、テレーズと正式に結婚する。逮捕状が有効なパリに戻るが、市民から熱狂的な支持を受けていたため歓待を受けた。ルソーの所在を知っている警察も逮捕に動くことはしなかったようだ。精神状態が安定し始め、執筆活動ができるように。出版こそできないものの、「告白」を朗読会で発表。
その後精神が不安定になり、「孤独な散歩者の夢想」を執筆する。テレーズが病気になり、看病生活をする。1778年7月2日、尿毒症に倒れ死亡。66歳だった。のちのフランス革命における功労者として、栄誉の殿堂パンテオンに合祀されている。

今後ルソーの著作を読み進めていくにつれ、情報を更新していく予定だ。

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