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「意思疎通のとれない人は価値がない」という思想

やまゆり園障害者殺傷事件

2016年、この悲惨な事件は起きた。
障害者施設に押し入った元職員は、抵抗のできない重度の知的障害の人をターゲットに19人を次々と殺害、27人を負傷させた。

この事件を起こした被告の考えは、「意思疎通のとれないような重度知的障害者は生きていても他人に迷惑をかけるだけだ、死なせたほうが良い」という衝撃的なものだ。

この本は、そのような被告と真正面から向き合い、その思想の背景は何なのか、この事件が生み出されたような社会の歪みは何なのか、探っていく本である。

私は、被告の思想は極端な形ではあるが、決して特別なものではない、と思う。
杉田議員は「生産性のないLGBT」という表現をした。障害者施設や精神病院を建てようとすれば住民は反対する。会社は障害者雇用をしたがらない。移民は受け容れたくない。…これらは全て、『役に立たなさそう』もの、『生産性のなさそう』もの、『迷惑をかけそう』なもの、を排除する動きだ。
障害者が生きていくのは楽ではない。社会の中に障害が多すぎるのだ。

尊重される生と尊重されない生。それがあるのがこの社会の悲しい事実である。
私は社会がこのような線引きを生み出さないために闘いたいと強く思う。
まずはこの本を読んで、被告の思想に、社会の風潮に、迫っていくことから始めよう。

やまゆり園事件の2つの特殊性

この事件には大きく分けて2つの特殊性がある。

1つ目は、被告は責任能力がありながら(精神障害等で現実検討能力が失われていたわけではない、ということ)これだけ大量の人間を強固な「思想」による判断で殺した、という点。

被告が妄想により支配されていて犯行に及んだのなら、メディアをはじめとする世間は被告を「頭のおかしいのやつが大変なことをやった」と簡単にことを済ませて終わるのだろう。

しかし、被告は被害者たちを殺す時、障害の重症度を確認してから殺したほど、徹底して「思想」に基づいて判断を下しているのである。(おそらく)理性をもって被告がこのような思想に抱くようになった、というのが非常に衝撃的であろう。

2つ目は、被害者が匿名化されている点
普通事件の被害者というのは顔写真と名前が報道されるものだが、この事件で警察は遺族からの要望を受けて「被害者が障害者であったことを鑑みて」匿名にしたのである。

遺族感情はまっさきに尊重されるべきだ。ただ、「匿名化してほしい」という要望に応じた警察の判断の裏にはどのような社会的背景があるのだろうか。「障害者だから配慮する」とはどういう意味なのだろうか。

そして今回の遺族の中には、ただ「周りに騒いでほしくない」という理由だけではなく、「親戚などにその存在を隠してきたから報道されることによって存在がバレてしまうからやめてほしい」という方もいたそうだ。殺される前から、その存在を抹消されてきたのだ。そのような状況に追いやってしまう厳しい現実とはどのようなものだったのか…。

これら2点について詳しく述べていく。

被告の犯行動機、思想

この本には、被告との面会での会話や文通が載せられている。
それによれば、被告は礼儀正しくきちんと会話ができる人間である。載っている絵もとても精緻で才能を感じるものだ。

被告は、自分の思想について、「多くの人が理解してくれる」と考えている。逮捕後もその考えは変わらない。実際、非常に寒気のする話だが、この事件後に一部のネット上のコミュニティでは賛同の声が湧いたそうだ。

もし「重度障害者は安楽死させたらどうか」と端的に言えば、多くの人が「そんなのありえない、誰しもに生きる価値はある」と強く反論するだろう。
しかし、冒頭に述べたように、現実には無意識にでも多くの人がマイノリティを排除しその生を虐げている、と私は感じているし、マイノリティ研究においてその考えは支持されている。

「心失者」という概念

被告は意思疎通の取れない特に重度の知的障害者を「心失者」と呼び、単なる「障害者」と明確に区別している。
もっともらしくこの新たな概念を支えているのは、なんと「世界人権宣言」の「人間は理性と良心とを授けられており…」という言葉
意思疎通のとれない人は「理性と良心」を授けられていないのだから人間ではない、という考え方だ。
そして、被告が考える幸せの2つの構成要素である「お金」と「時間」を心失者は他人から奪うだけなので生きるべきではないというのだ。

それにしても近代的な価値観である。「近代的個人」とは確かに、被告が語るように「理性と良心を持って時間を有効活用してお金を生み出し自立(この『自立』は多くの場合『他人に迷惑をかけないこと』として理解されるだろう)し個人化された人間」を指していないだろうか。

したがって、被告の思想に「それは絶対に違うぞ…!!」と言いたければ、この現代社会を支配する価値観から問い直さなければならないのではないか、と私は感じている。そして、私たちはまず、私たちのなかに巣食う強者の価値観を自覚しなければならない。

障害者とケアする者の間にあるもの

被告はこの施設の元職員である。
被告は、仕事はそつなくこなしつつも、「目の前の障害者たちに生きる意味は果たしてあるのだろうか」と疑問を深めていったようだ。

確かに重度知的障害者とともに生きることは決して楽ではない。
食事が一人でできない人、奇声をあげる人、糞便で遊ぶ人、…。
どうか「障害があっても普通に生きていけるよ!」なんて軽く言わずに、「もし自分の家族だったら…」と想像してほしい。
介護殺人もよくあるように、意思疎通のとれない人を目の前にしてケアする者の大変さは想像を絶するものであろう。
その現実を前に、仕事であったとしてもその人を迷惑に感じたりケアをすることに虚しさを感じたりするのは正直な気持ちだろう。看護師や介護士のSNSを見ているとそういう愚痴は極めて普通だ。

しかし一方で、私は重度障害者とケアラーの間にそれ以上の強く温かいつながりも生まれうるのではないか、と考えている。
親であれば、子が重度知的障害者であっても可愛いものだ。これはよく聞く共通した意見で決して強がりではない。

この「可愛い」という表現は、下の本で看護師が重度精神疾患の方の看護をする際にもよく使われていた。

つまり、ある場面・関係においては、依存されている対象を愛おしく守りたいものとして、意思疎通の取れない人を感じ取るのだ。赤ちゃんを可愛いと感じるのと似ている。

それにしても、ケアラーが重度障害の方を「迷惑な人だ、虚しい」と感じるのか「可愛い、愛おしい」と感じるのか、この差はどこから生まれてくるのだろう
それは私にも分からないが、この差を決して「ケアラーの人格」なんて単純な答えに還元するのではなく、ケアラーを取り巻く / 支える構造的要因を見つけなくてはいけないと思う。

被告が同僚に「思想」について語った時、同僚たちは誰一人きちんとした理由を挙げて反論することができなかったそうだ。
彼らは利用者たちを愛おしく大切に思って価値を認めていたのにそれを上手く表現する言葉を持っていなかったのかもしれないし、利用者たちを大切に思えるような環境がなかったのかもしれない。
私たちは、重度障害者たちの生の尊重を当たり前のものとするための言葉と、それを保障するための環境を作っていかなければならない。

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