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私たちは非暴力を訴えなくてはならない / Non-violence, Grievability, and the Critique of Individualism(Judith Butler)

前回の記事に引き続き、現代思想のジュディス・バトラー特集から2作目!
前回の記事はこちら↓(バトラーの歩みについての内容)

皆さんは「誰にでも生きる価値はあるのだ」と胸を張って言うことができるだろうか?
少し考えてみると、社会の中には「生きる価値がある」とみなされていない生があることに気づくのではないだろうか。

政治権力の元に正当化された暴力である戦争によって死んでいく人々。
あるいは、重度の知的障害を抱えながら家族にも顧みられず隔離された施設の中で暮らしている人々。
あるいは、女性だからというだけで児童婚を強いられたりレイプされたりする人々。

これらの人の存在を知りながら、すべての人はその生を十分に生きる価値が保障されていると言えるだろうか。
裏を返せば、彼らは死んだ時にその喪失に気づかれ、悲しまれることができているだろうか

上記のような現実を冷静に見てみると、全ての生が平等に「哀悼可能(=喪失した時に悲しむこと、悲しくなるから喪失しないように守ること)」ではないのである。
この哀悼可能性の不平等さをもたらしているのが、暴力である。
暴力は、「喪失を喪失としてみなさない」ことを許すことを意味しているのだ。

バトラーは、この悲しむべき暴力を生み出すしくみについて考察し、それに対抗するための新たな武器、すなわち、実質的な「生の平等」を支えるための言論をこの本の中で行っている。

これから非暴力を主張しよう

さて、この本は哲学的バックグラウンドのない私にとって、とても難しいものだった。なので、まずはこの本における話の進め方を最初に確認しておこう。

この話の最終目標は非暴力を立脚する土台となる倫理を確立することである。
そこに至るまでの流れを逆算的に以下に示す。

(3) 非暴力の倫理の確立

(2) 生の相互依存性を地盤として個人主義的ではない平等を示す

(1) 個人主義批判

(1)→(2)は、
「私たちはお互いに対してどのような責務を持つのか」
「なぜ他の生の幸福を気にかけ、守るべきなのか」
という問いに関わっている。

(2)→(3)は、
「相互依存性の概念が、生が平等であることの理解を助けること」
「相互依存性の概念が、暴力の許可が私たち自身を規定する社会関係の攻撃に等しい理由を示せること」

に関わっている。

個人主義に毒された私たち

私たちは個人主義に浸りながら生活している。

少し自分を省みれば、成功も失敗も自分の責任なのだ、という根強い考えを持っていることに気づくはずだ。「責任をとりなさい!」、そういうふうに怒られたことのある人も多いだろう。
権利と義務、という考えも個人主義に基づく。「権利を主張する前に義務を果たせ!」、あるいはそういうふうに怒られたかもしれない。笑

さて、この個人主義は、どこから、何を目的として、生まれてきたのだろうか? 個人主義は、今の私たち / 世界に、何をもたらしてきたのだろうか?

個人主義が、私たちの連帯を引き裂き、尊重される生と尊重されない生という線引きを生み出し、この世界に暴力をもたらす原因の1つなのであれば、これを批判するところから始めなくてはならない。

人間は1人で生きていけるのか?

個人主義の起源をたどると、政治的にはホッブズの「自然状態」の考えにいきつく。
「万人の万人による闘争」という言葉でよく知られるこの考えは、
とても簡単に言えば「人間が1人だった時は何も困らなかったが、たくさんの人がいると自己利益の充足のために各々が働きかけるため闘争状態になる」、というものだ。

そもそもなぜこのような空想上の世界(これから「イマジナリー」と呼ぶ)を想定する必要があったのだろうか?
それは、何を基盤として今の社会のシステムは出来上がっているのか、どういうプロセスを経て来たのか、それを説明してほしい、という渇望があるからだ。
基盤が欲しい、そうでないと「今」の私たちの指針も失われてしまう、という漠然とした不安があるのだ。
イマジナリーは、空想であり、基盤であり、指針なのである。

それでは、ホッブズのイマジナリーについて考えてみよう。
バトラーが問題としたのは、「自然状態」をホッブズが「人間世界の一番初めの白紙の状態」として想定したにも関わらず、本当は「白紙」ではなく、ある一定の前提条件が含まれてしまっていたことである。
それは何か。

実は「大人の男性がただ一人でそこに存在して、自己充足している」という仮定は、様々な排除を前提としている。
彼の子供時代は? なぜ男性なのか? 彼はなぜただ一人なのか? それで充足しえるのか?

ここには、完全に個人化されたものとして man(人間 / 男性)が描かれているのである。
しかし、私たちは完全に個人化されたものになりえるだろうか? いや、私たちは皆、昔は子供だった。母親によるケア労働によって支えられていたのである。
こういった他者への「依存性」を徹底的に排除したのがホッブズの描く「自然状態」なのだ。

そして、このように表象されたものには必ず、私たちの願望が入り込んでいる。この「自然状態」だって例外ではない。
私たちはどうやら、自らの他者への依存性を否認し、自らを独立し完全に個人化されたものだと思いたいようだ。

「これではおかしい! 人間は1人では生きていけないんだぞ!」
そう考えたバトラーは、個人主義の起源となったホッブズのイマジナリーに代わって、あらゆる弱い立場に置かれたものの生を肯定する新たなイマジナリーを作ることを試みた。

全ての地盤は相互依存性だ

さて、先ほどの「人間は1人では生きていけないんだぞ!」というバトラーの主張についてもう少し深めておこう。

私たちは本来、他者依存的である。
時間経過でみれば、私たちは赤ちゃんの姿で産まれ、食事・排泄・体温調節に至るまで周囲の大人に依存して生きてきた。
そしてこの幼児性が大人になったからといって完全に乗り越えられるわけではないことをフロイトの精神分析は示し、
大人となった私たちも他者を取り入れまくってやっと形成できたものであることをラカンの鏡像段階論は示している。

こうした私の依存性は、ポピュレーションへの依存性も含んでいる。
誰一人、自分だけで自分を養うことはできない。電車があるから学校に行くことができ、コンビニがあるから食事ができる。
深く考えずとも、私が限りなく多くのポピュレーションに支えられていることは明らかである。
この事実を「相互依存性」とバトラーは呼んでいる。

そして、この「相互依存性」を念頭において物事を考えることによってのみ、「グローバルな責務」(=弱い者を含む地球上のあらゆる者に対する一人ひとりの責務)という考え方をはっきりと公言することができるようになるのだ。

一見、「グローバリゼーション」はグローバルな責務という概念を支えているようだが、それは政治・経済レベルでのネオナショナリズムに過ぎず、その枠組の中では移民の人々、戦争のさなかにある人々、ハラスメントを受ける人々、…を省みることは難しいのである。
逆に、「相互依存性」の考え方であれば、私たちは誰もが世界津々浦々の社会関係に依存するという意味での「相互的な可傷性 reciprocal vulnerability」にさらされているという点で、あらゆる生を平等に省みることができるのだ。

相互依存性が非暴力を支えてくれる

ここで本題に戻ろう。私たちのテーマは非暴力だった。

この世のほとんどの暴力は不平等が大もとにある、ということが言えると思う。
なぜなら、暴力が行使される時には「暴力を行使しても構わない対象」と「暴力から守るべき対象」とが区別されているからである。
前者は、多くのポピュレーションから名を知られることもなく、十分な意味で生きていたとみなされていない。
冒頭に出てきた「哀悼可能性」が生きているときから見積もられていないのだ。

こうした哀悼可能性の差別的な配分があるからこそ、「全ての生は平等に哀悼可能である」と公言するために「相互依存性」のイマジナリーがあるのである。
ラディカルな平等への関与こそが、非暴力の倫理的立場なのだ。

非暴力は実践できるか

こうして非暴力を相互依存性のイマジナリーによって倫理的に立脚することができたわけだが、果たしてどのようにこれを現実世界に持ち込んで実践することができるのだろうか?

一番始めにしなくてはならないのは、暴力と非暴力の区別である。
暴力を暴力としてみなさないのであれば、暴力がなくなることはない。

この世には、さまざまな形の、「暴力とみなされない暴力」がある。
批判するものを逆に「暴力的だ」と評価することで封じ込める権力者の暴力。
ナショナリズムの正義のもとで武力を行使する暴力。
マイノリティをありのままで十分に生きることから阻害して緩慢な死へと導く世間の暴力。
これらは暴力である、と私たちは認識する必要がある。

さらに、私たちは、暴力への対抗手段として暴力の所持を主張する人を警戒しなくてはいけない。当たり前だがこれは暴力を増やすだけである。
それでも暴力を所持しないことに怯える人にとって、先述した新しいイマジナリーが必要とされているのだ。

自ら選択したわけでもなく、どうしようもなく置かれた、相互依存性のネットワークの中では、攻撃性や悲しみが生まれたとしてもそれがただちに暴力へとつながることはない。なぜなら、この中では、暴力によってネットワークを脅かすことがすなわちその中にいる自分を脅かすことでもあるからだ。

相互依存性は「みんなで愛し合いましょう」といった理想論ではない。
「生き延びることへの権利はグローバルな責務の主体的な事実的実践」とバトラーは述べている。
言葉は難しいが、「私が生き延びる、ということはすなわち、相互依存性のネットワークでつながれたあらゆる人の生を認めるという責務を行ってこそ成り立つものなんだよ」ということだ。(合ってるかな……。)

相互依存性は、時に避けることのできない憎しみや悲しみを生むことも認めなくてはいけないが、また同時に、脱我的な視点を得る喜びにも満ちたイマジナリーなのだ。

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