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私たちの多様性を丁寧に探索しよう

何となく「他の人とは何か違う」と感じた時、あなたは「社会的マイノリティ」といえるかもしれない。

「社会的マイノリティ」であることは居心地が悪い。
逆に「居心地が悪い」と感じているのに、その状態にはっきりとした名前がないせいで孤独を感じるかもしれない。

そうした居心地の悪さの解消の糸口は多様性の探索にこそある、と私は思う。
まずは、この居心地の悪さがどのように生まれてきたのか探っていこう。

今回はこの本の第二章を参考にした。

弱者は誰? 強者は誰?

私たちは「社会的マイノリティのレッテルを貼られたから、居心地が悪い」のだろうか?
それとも「居心地が悪いから、社会的マイノリティであるという自覚が生まれた」のだろうか?
この問いに答えるために、まず社会的マイノリティとは誰を指すのか確認しよう。

多くの人は「マイノリティ=少数派」と思うだろうが、「社会的マイノリティ」と言った時は人数の問題ではなく「社会によって弱い立場に置かれた人々」を指す。

例えば、(欧米では)4人に1人が一生の間に精神疾患を経験するため、精神疾患を持つ人は決して「少数派」ではないが、彼らが受ける排除を考えれば彼らは社会的マイノリティと言える。
極端な例を挙げれば、機会の不均等が起こっている場面では、世界人口の半分を占める女性さえも社会的マイノリティである。

ここからは簡単のために「社会的マイノリティ」を単に「マイノリティ」と呼ぼう。

さて、マイノリティはどのようにしてマイノリティになるのだろうか?

それを考えるために、ドミナントグループ(「社会的マイノリティ」の反対語として使う言葉)との違いを探した Dworkin and Dworkin という面白い名前の人(夫婦なのかな?)は、マイノリティの4条件を挙げている。

・ドミナントグループとの違いが分かること
・その違いにより力の差(権力、財産など)が生まれていること
・軽蔑などを含む、他の人達と違った扱いを受けること
・マイノリティであるという自覚

なるほど。
確かにこれらの定義によって、
障害者 / 健常者
貧乏 / 金持ち
黒人 / 白人
というふうにマイノリティ / ドミナントグループを分けられそうだ。

しかし、事態はそこまで単純なのだろうか? この4条件をチェックすればマイノリティかどうかを判断できるのだろうか?
…そもそも、なぜこの二分法が生まれているのか? それは必要なことなのだろうか。

人間は世界を線引きによって理解する

この二分法を理解するために、人がどのように世界を認識しているかを知ることから始めたい。(まわりくどいけど、たぶん大事。)

私たちは、世界に線を引き、名前をつけることで世界を認識する
このことは、ソシュールという言語学者の考えを知るとよく分かる。

「線を引く」例として挙げられるのが、「兄 / 弟」。
英語だったらどちらも "brother" なので両者をわざわざ区別することは少ないが、日本語では年齢で両者を区別する。(単純に言ってしまえば)「兄 / 弟」という言葉が、年齢による序列の認識を強化している。(逆に年齢による序列の認識がこの言葉の区別を生んだともいえる。)

逆に、「線を引かない」こともできる。例えば、「犬」。
秋田犬とチワワだったらだいぶ見た目が違う。
しかし、私たちは両者をまとめて「犬」として認識できる。「犬」という言葉がなければ両者を同じものとして認識するのは難しいかもしれない。
(この時、私たちは秋田犬とチワワの間には線を引かず、「猫」など他の動物との間には線を引くことで「犬」が成り立っている。)

このように、何かと何かの間に言葉によって線引きしたりしなかったりすることで、人間は世界を認識する。
この事実は、様々な概念を操る人類の叡智ともいえるし、同時に、言葉によって線を引かないことには世界を認識しづらいという人間の限界も示している。

こうした人間の認識について考えてみると、マイノリティ / ドミナントグループという二分法が行われる理由が分かってくる。

例えば、
「特別な支援を与える対象」を国が『認識』するために、診断や等級という『線引きの方法』によって『障害者 / 健常者』が生まれる。
個人レベルで言えば、知り合いを、家の大きさや場所という『線引きの方法』によって『貧乏人 / お金持ち』を『認識』しているかもしれない。

本当の世界はグラデーション

でも、この便利な線引きは、世界をあまりにもシンプルに見せかけてしまう。

私たちは本当はグラデーションで出来ている虹を、「赤 / 橙 / 黄 / 緑 / 青 / 藍 / 紫」とテキトーに区切って七色だとのたまわっている。
本当はそんなにシンプルではない。

例えば、だんだん耳が悪くなってきて補聴器を使い始めた80歳のおじいちゃんは「障害者」だろうか?
耳が悪い人の中にも、生まれつき全く聞こえず手話を使いこなして生きてきた人〜病気になって30代で聞こえなくなり筆談やチャットでコミュニケーションを取るようになった人〜上記のようなおじいちゃんもいる。
聴覚障害者かどうかは、誰かが自由に(テキトーに)区切っているだけ。

「貧乏 / 金持ち」という二分法などは、所属するコミュニティというグラデーションの切り取り方によっても、自己認識がゆらゆらと変わる。

というわけで、私たちがテキトーに線を引いて認識しているこの世界も、本当はものすごいグラデーションでできていることが分かったところで本題に戻ろう。

多様であることの難しさ

人はグラデーションをグラデーションのまま認識するのは難しい、という事実は、マイノリティをめぐって思わぬ弊害をもたらしている。

それが、(1)マイノリティの代表性と (2)インターセクショナリティ(複合差別)」の問題である。

(1) 「誰が本当のうつ病?」 (マイノリティの代表性)

例えば、あるうつ病の人が、「カウンセリングを1年受けたらすっかり治った! うつ病の人はカウンセリング受けたほうが良いよ」と言ったとする。
すると、「前2年カウンセリング受けたけど全然治らなかった。テキトーなこと言わないで。」「軽いうつのくせにアドバイスするなよ」…そういう声が噴出する。

うつ病も「ストレスがたまって1ヶ月うつになりました」という人〜「子供時代の深い心の傷が影響してもう30年うつのままです」という人まで、グラデーションなのだが、
誰かが個人の立場を表明すると「(自分こそが『本当』のうつ病なのに)お前がうつ病を語るな」という気持ちが出てきたりするのだ。

これがマイノリティの「代表性」の問題である。
虹の中で黄色の人が「私が虹だ!」といえば赤や紫の人は排除されている気持ちになる、ということである。

だからといって私たちが虹について語ることを諦めてはいけない。それはマイノリティの孤立を深めるだけである。
大事なことは、赤の人も紫の人も黄色の人も、同じように発言権を保障され、耳を傾けられ、そして互いにそれを尊重することである。

ただ、悲しい傾向の1つとして、「本当に重くて深刻な状態にある人には発言権がないことが多い」というものがある。
一番弱い立場におかれた者も同じように尊重するためには、こちら側から積極的に耳を傾け全身全霊で彼らの存在を感じ取る必要があるのだ。

(2) 差別・困難のかけ算 (インターセクショナリティ)

今までは、1種類のマイノリティの中での多様性の話だったが、自分1人の中にも多様な性質があることも忘れてはいけない。

そして、もしマイノリティ的性質を複数持っていた場合、その性質同士がかけ算して、より深刻な差別や排除や抑圧を受けてしまうことがある。
例えば、「女性」と「障害者」という性質を持っていると、性的な被害に遭うリスクがぐんと高くなってしまう。

これが「インターセクショナリティ」「複合差別」と呼ばれる問題である。
詳しくは、下の本の「複合差別論」に上野千鶴子が書いている。

私たちは、1つのマイノリティについて語る時、その中で別のマイノリティの問題を強めたり抑圧していたりしていないか注意深くあるべきだ。


今まで話してきたことは、この先生がおっしゃっていたこととと重なる部分も多い。とっても分かりやすい!!

多様性の中で生きている喜び

こういった多様性は、きちんと向き合えば、決して「困ったこと」ではない。
自分の中の多様性を知ることは心の健康の第一歩だし、他の人について多様性と知ることは連帯の第一歩である。

私たちは、自分自身のことも、他人のことも、たった1つのカテゴリーに押し込めてしまいがちだ。(これも線引きによって認識をする人間の業の1つだ)

例えば、あなたがパニック障害をわずらっていたら。
毎日「電車の中でパニックを起こしたら…」と恐れているうちに、自分のことを「パニック障害の患者」としてだけみなすようになっていく。
しかし、あなたは同時に自分が、「バドミントンが得意で音楽が大好きな人である」ことを忘れてはいけない。
自分の中の多様性を忘れることこそが不健康なのだ。

また、綾屋と熊谷は下の本の中で、アスペルガー症候群と脳性麻痺という(医学的に)全然違う障害から、当事者研究を通じて、同じグラデーション上にある症状(「知覚のまとめあげ」だったかな…忘れた。)を見出している。

彼らがやっているのは、丁寧に多様性を探索し、決して「私とあなた」が「ぜんぜん違う」とすぐ諦めたり、「全く同じだ」と熱狂したりしないことである。

「何かと何かの間に線を引きカテゴリー化する」という人間の認識の限界を少しずつ破って、「カテゴリーを超えた共通性」と「カテゴリーの中の多様性」とを知ろうとする挑戦が、私たちを豊かにし、互いに手をつなぐことを可能にするのである。

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