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年々減っていく「好きへの熱量」について

こんばんは、都落ちニキです。

僕は現在、28歳の独身の男。

いわゆるアラサーと呼ばれる世代に足を突っ込んで、もう3年と久しい。

もちろん年齢のせいだけではないはずだが、やる気や意欲というものがなくなり、自分の意思がどこかへ行ってしまったものと感じる。
きっと僕だけではなく、同世代の方にもなんとなく思い当たる節があると思う。

今日はそんな失ったものについてのお話。

【少なくなった、○○してみよう】

「好き」という言葉を僕なりに定義するのだとすれば、
”ただその分野においてただ欲求を求めるために、向上心を持ち、情報収集や実践に時間を注ぎ込めること”
だと大学生の頃から考えている。

小学生から高校生にかけて、僕はとあるスポーツに夢中になった。
およそ10年間、かなりの熱量と時間とをそのスポーツに注いできた。

きっかけは友達が「一緒にやろうよ」と誘ってきたこと。ただそれだけだった。

そこから好きになるまでそれほど時間はかからず、飯の時間でさえも、上手くなることに意識向けていた。

結局そのスポーツは今でも好きだし、プロのゲームも高頻度で観戦する。 

だけどもちろん、現役を退くと同時に「どうすれば上手くなれる」とか、「もっと練習の時間が欲しい」とか向上心に係ることはもう考えなくなった。
それどころか、自分でやってみたいと思うことさえ全くなくなった。

思い返せば、それが僕の人生で最後の「好き」だったかもしれない。

それ以来、特に何かに特別な感情を抱くこともなく、それどころか好奇心や挑戦心さえもなくなってしまった。

若いスポーツ選手を見て応援するのも、
誰かのYouTubeを見て、高評価ボタンを押すのも、
もしかすると、僕ができなかったことを他人に投影しているのかもしれない。

【欲求の低下】

「老後のために節約・投資」「若いうちからコツコツと」
日本ではこのようなシュプレヒコールの様なものが叫ばれて数年経つ。

20代前半の頃、僕はこの言葉たちに共感を覚えた。

それからは衝動に駆られるたびに、必死で欲求を抑えつけてきた。

そして「これは今は必要ない」「自分はお金がないから」と
すぐそこにあった「体験」や「熱気」というものをやり過ごすようになった。

意識的に抑えるよう訓練してきたことが、
無意識に制限される様になってしまった。

99%の人にとっては、人生にはどこまでもお金が付き纏う。
バランスが大事だとは言うけれど、結局は統計的な数字に踊らされている様に思う。

実際、「お金を貯める」ということに関しては、ある程度習慣化しようと思えばできる。
(今は貧乏だけどね)


そして僕は今、口座の残高が増えていくことに何より高揚感を覚えている。


【がめつさの喪失】

そう、歳を食って、失ったものがもう一つ。
がめつさ。
昔の自分はどうだっただろうと、思いを巡らしてみた。
うーん、がめつかった。しかもわがままだった。

これらの言葉は、良い意味で使われることはほとんどない。
一般的には卑しさや子供らしさを象徴する際に使われる。

だけど今の僕には、その卑しさや子供らしささえも羨ましく思う。

「このままじゃダメだ」VS「もうこれでいいや」
の対決は、歳を重ねるごとに後者に軍配が上がっていく。


【大人になるということ】

大人になる=自分が今までしてきたこと、通ってきた道を、「これでよかったんだ」と変換できるようになること。

どこかでこんな言葉に出会ったことがある。
そして年々、この言葉に理解を深めていっている自分がいる。

人と別れた時、進行方向を変えた時、思いもよらないことが起こった時、
この言葉の解釈の自由さに救われてきた局面もたくさんあった。

だけども同時に、物事への興味が薄れていっている自分をハッキリと自覚する。物事への不感症。

きっと、
どんな道に進んでもそれなりにやっていけるという自信と、
どんな道に進んでも別に変わらないという諦めの気持ち。
この両輪をはらんだ言葉なんだろう。

そしてこの二つの気持ちと上手く付き合っていくことが、大人になるということなんだと思った。
そんな火曜日の黄昏時。


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