頭の中はスクリーン

とりとめのないことをつらつらと考えることが好きだ。考えたことを文字に文章におこして記録する。その時の気持ちを保存して、あとから別の私が読んでヘェとなるその感覚も好きだ。だからnoteに書き、X(べつにTwitterでも良さそうだがいまXなので…)に投げ、ひとに話して議事録をつくる。


同じことを、違う言葉を使って表現するのがすきだ。昨日は、TLに『「すき」ってどういうすきなのさ?』という問いかけがあったので、すきを違う言葉であらわして説明したくなって、たくさん書き上げるなどした。
わたしの「すき」は「わたしはそれをすてきと思う」という意味であり、わたしの「すてきと思うポイント」は「綺麗」「憧れる」「美しい」「かわいい」「心が嬉しくなる」「かっこいい」「楽しい」「ずっと見ていたい」「どきどきする」などの要素があるようだ。
「しぐさ、言動、ものごと」×「すてきと思うポイント」で表すと、「すき」が大変鮮やかになることがわかった。(例:声の高さが耳に心地よい)
「すき」の因数分解は、たのしい。

人が話すのを聞いて、人が放った文字を見て、わたしの頭の中には映像があらわれる。音楽を聞いていてもそう、自分がひとりで頭の中の整理整頓をしていてもそう。それは見たことのある映像だったり、知ってる人だったり、知らない景色だったり、わけの分からない幾何学模様だったり、はたまた1色の塗りつぶしだったりする。どうやら頭の中にはスクリーンがあって、カラオケの背景のように勝手に関係ありそうな映像を映してくれるようだ。音楽が流れていると特に、スクリーンに何かが浮かぶ。歌詞と関係あったりなかったり、MVの再生だったり。毎回同じだったり、同じ景色なのに映像の視点が変わったりして楽しい。本人の要望には応えてくれないため、何が出るかは映るまでのお楽しみである。

音楽を聞いていないとき、イヤーワームがBGMを流してくれることがある。わたしの脳内は無音が好きではないらしい。なにか耳に入ったキーワードが歌詞に使われている歌だったり、深層心理焦ってるのかな?というような切羽詰まったクラシックだったり。
同じ場所を延々とかけてきたり、謎のCMや店内BGMが延々と流れてくることもある。誰に広告料もらってんの?これがいいな!と思ってもイヤーワームには伝わらず、奴は「いまきみはこんな気持ちだよ」と教えてくる。


ある日とても憂鬱な会議の前、チャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」三楽章が流れていた。明るいがせわしなく、切羽詰まって追い詰められている曲調だ。それが、会議が終わって気づいたときには二楽章の、のどかで懐かしくゆったりした曲に変わっていた。いかに会議の前にそわそわそわそわしていたかに気づいてちょっと笑ってしまった。

今日は朝からホルスト「惑星」より『土星』が流れている。弦がざぁん!と刻むところがたいへん美しく、大音量に鳥肌が立つ。しかしながら、きっと雨が重苦しく、やりたいことに追われているくせに全てを投げ出して帰りたい、あたりの気持ちなんだろうなと思う。曲はすきなんだけれども。


この間人と話して、どうもこのわたしの頭の中のスクリーンもイヤーワームも全人類に備わっているわけではないらしいことに気がついた。無音だったり、なにも映らなかったりするらしい。そんなところまでうちはうちよそはよそが徹底していることに驚いた。人と共感できないのは少し寂しいので、ここに書き記しておく。未来のわたしに「なにこれまるでわたし」「わたしだったわ」のやり取りをしてもらわなくては。


おわり




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