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影を秘めた微笑みが切ない

 この7月にトニー・ベネットが96歳で逝った。
30年も前のことだが、ロサンゼルスに住んでいた頃、
コンサートがあるというので出掛けた。
地方の街のこぢんまりとしたホールで、
64歳の希代の名歌手が歌っている。
聴衆は白髪の紳士淑女ばかりで40歳代の
自分が子供に感じられたほどだった。
 
 終盤、照明が落ちて、柔らかい青いスポットを浴びて、
蝶ネクタイを解いて襟を開け、ウイスキーロックのグラスを
ピアノに乗せて、低い声で囁くように詩を朗じ、歌い出したのが、
1965年上映の映画「いそしぎ」のテーマ曲
「The Shadow of Your Smile」だった。
 
 お互いに家庭を持った男と女が浜辺で出会い、許されない恋に落ち、
夏と共に去って行った女を懐かしがる男の心情だが、
イタリア系のちょい悪オヤジ風のトニー・ベネット自身と
重なって引き込まれる。
不倫の歌かと片付けるには惜しい大人の情感は
若い者には味わえない域のものだろう。

 この歌詞は、何人もの人たちが翻訳しているが、
改めて引いたり足したり元の歌詞に拘らず綴ってみた。
     ・・・・・・・・・・・・・・・
           詩
早春の浜辺を二筋の足跡を残しながら歩いた。
一羽の小さいシギが砂の上でうずくまっていた。
君は私の手を離してその小鳥に駆け寄り、手に乗せて、
翼に付いた砂を優しく払った。
小鳥は、舞い上がり仲間の群れに戻っていった。
空を見上げて微笑む君の横顔の美しさに息を呑んだ。
こちらを振り向き微笑みかける君の瞳は、
これまでの人生の幸せをひとまとめにしたより
大きな悦びに感じた。
           
君とのあの幸せな時を、今、懐かしんでいる。
一人、砂浜を歩き、優しい風を受けながら
空を舞うイソシギの鳴き声を聴いていると君の面影が、
まるで夜明けと共にすべてが色づくように蘇ってくる。
君とのひとときは一生の素敵な思い出になっている。
二人が望む希望の星は余りに小さく遠く、手が届かなかった。
別れの予感に君の涙が一筋、唇に触れるまでじっと見つめていた。
君がだんだん滲んで見えなくなったから、
きっと僕の涙も溢れていたようだ。
巡ってくる早春、この浜に来てイソシギの鳴く声を聴いて、
蘇ってくる君の戸惑いの影を秘めた美しい微笑み。
甘く切ない想いに、胸がキューンと締め付けられている。

 


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