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早朝六時の梅酒と人間関係について

昨日、上司が朝っぱらから梅酒を三本、置きに来た。
寮に、早朝六時前に。

まだ外は薄暗い五時過ぎに『起きてるんだろうな?』とLINEが来た。「そのけたたましい連絡のせいで起きました」と私は返信する。(上司は単身赴任なので朝イチで自宅に帰るついでにということだが)、六時前にはチャイムが鳴った。

一方私は、急いで身支度するかというと、そうではない。そのまま最低限よだれが乾いてないかどうかだけを確かめ、またベッドに潜り込む。

『部内異動とは言え一番世話になったから渡したいものがある』と連絡が来たのは三、四日前のことだった。

その前に課内にちょっとしたお菓子とメモ程度の手紙を置いて私はそのデスクを去っている。

上司が手渡したいそれが若干重いという情報と取りに来いという指示が合わさり余計面倒だと思った私は、「こちらがお世話になった側なので気を遣っていただかなくても…あと、取りに行くのが面倒なので、大丈夫です」と言った。

(安心して欲しいのは、互いに…というか上司の方は完全に私を男の部下だという感覚を持っていて、私は向こうが父親であるというくらいに心を許しているというしっかりした(?)関係であるということ。)

そしたら大真面目に向こうは言う。
『感謝の気持ちを伝えちゃ悪い?』

ふむ、そうだよな。

私はこういう基本的な、照れようのないような基本的な事を正直にやってのけるおとなが居たからこの会社を辞めずに来たのだ。

正直者はバカを見る、というが私の人生ことごとくそれを痛感させられる瞬間が多かった一方で、今いる環境というのは素直で子どもみたいなおとなが多い。

特段、一番下っ端である事とか、年下に指示されるのが嫌とか、一から仕事を覚えるのが面倒とかいうこだわりもない私は、大卒後は直ぐに何度も仕事を辞めてしまっていた。そんな自分が、ここまで辞めずに来れたのだ、そんな人たちのおかげで。

わがままだのオメーが取りに来いだのオメーが持ってこいだののすったもんだありつつ、結局上司が自宅へ戻る際に乗る始発列車の前に寮に寄っていってくれた。

今どき、あまりない上下関係だとは思う。
けれど、向こうは上司であり職人(料理人)、気分や感性や感覚を素直に表現した交流の仕方が最も信頼関係を築きやすい相手だった。社交辞令や面倒くさい上辺だけのやり取りでは得られない仕事のあうんの呼吸、関係性というのがあるのだ。

「マックのカフェラテMサイズもお願いします、ホットで。」

私がこの世に生まれた時にはすでにこの会社に入社していた上司であるが、これから家を出るという彼に私はそんなメッセージを送る。

普通なら、そんなこと頼めないのだろうけれど、こういう事を頼んでみると案外こんな返事が返ってくる(ことを私は知っている)。

『あ、じゃあ俺もコーヒー、マックで買おっかな』

私はいつからか、こういう、“案外いけること”みたいなことを人間関係において信じてみるようになった。持ちつ持たれつ、のようなもの。その分私は絶対にあなたの仕事を支えます、という覚悟があるからできるようなこと。

朝五時半過ぎ、そうして私はメガネですっぴん寝巻きのままでその“感謝のブツ”を待つことにした。

ピンポーン

『おお、すっぴん初めて見た』

「当たり前でしょ、あんまり変わんないでしょ」

『変わるよ』

「は?」

感謝すべきはこちらだ。
面倒くさいことがたくさんあるこのご時世、面倒くさいと正直に言える関係性。

『大したものじゃないけど。これからストレス溜まるだろうからちびちびのんで頑張って、じゃ。』

「今までの課よりは溜まんないと思いますけどね、ありがとうございます」

そこには私が唯一好んで飲めるお酒、梅酒が三種類、ドカドカと置かれていった。約束通り、マクドナルドのホットカフェラテも。

上司は最後、ちらっとだけ片手を挙げて扉を閉めていった。当然、私も同じポーズで見送る。

社会人、みんなどんな風にしてこの世の中を生きているんだろう。

私は中身のおっさん化が顕著であることと、元々『女性らしくふんわりやさしく控えめに振る舞う』なんてことも出来た試しがないからこんな風な関係性を築くことしかできないのだけれど。

個人的には、世の女性が“セクハラ”と思えることの大半は許容できる。なんとも思わないどころか、男性に混じって同じようなレベル感で(※決して彼らを見下してはいない)真顔でPCを打ちながらでも混ざることはできる。

そこに品とある程度の信頼があるかないかは大事なのだけれど。

私は、人見知りではあるが、コミュ障ではない。この社会が好きかと言われれば好きでは無いし、忖度とか空気を読むとかもあんまりできない。

ただ、なんだかよくわからない場所にわからないままズボッと足を踏み入れてみることは好きだ。

今の世の中じゃあ、上司たちも人間関係が築きにくいだろうなと思う。私自身も、周りの尺度(警戒度)とあまりにズレていて愕然とすることがある。要するに私は一昔前の人間関係の距離感があるというような(曖昧な)自覚があるから。

退勤後に私服に着替えて散歩して、スタバに入って本を読んでる最中に上司から呼ばれれば(多少喜んで)駆けつける。その仲間内が誰であっても基本的に気にしない。

上司や役員らに誘われた飲み会も、別にメンバーが誰であるかも気にならない。あまり、好かれようとも思っていない、好かれているかどうかにこだわっていないからだと思う。丁寧すぎるんでもなく、雑すぎるんでもなく。私もそうするし、あなたもそうでいいですよ、という雰囲気をのらりくらりと出していく。“意識しすぎ”なこのご時世を何にも気にせず生きていく。

こういうことというのは自らが語ることではないのかもしれない。ただ、こちらもある程度開放していると、良い悪いの選別は別として、色んな形の人間関係が築き上げられる。そして、何かあった時に本当に、自分のエネルギーに変わるような何かを与えてくれるような関係性が宿るようになる。

別にそんなこと、意図してしていることではないけれど、ある程度は、こちらも正直でいると向こうも正直でいて、それは年齢や役職、地位も関係なくて、けれど結果として、やさしい人というのは上に立ちながらキチンと下が信頼しているし、さらにその上も信頼していることというのがよくわかるようになるし、正直さの根にあるその人の生まれ持った人間性のよい部分と触れ合うことができるのだ。それも自分が一番、大変な時にこそ。

何が言いたいか、結論もないのだけれど、そういう事を感じる社会人生活について、書き残しておきます。

何って、正直さの中に生まれたありがたい関係性というのは、何にも変えられない自分の支えになる、ということ。この日本社会の「やさしい」とされている事について、色々思うところはありますね。

雑ですが、備忘までに。

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