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中世ヨーロッパにおける「娼婦」の社会的意義について

序論
我々にとって「娼婦」とは一体何であろうか。あまりに唐突で突拍子もない疑問ではあるが、本論文はその疑問から出発している。「娼婦」という言葉を聞いて思い浮かべるイメージは個人によって様々ではあるだろうが、例えそれが本能のままに快楽を貪る淫婦の如き性的なイメージであっても、やむを得ない事情から自身の意思に反して男たちの性欲の捌け口になっている、というような抑圧のイメージであったとしても、それらの殆どは政治的な意味での「個人」が尊重され、「人権」という概念が広く浸透している現代社会の価値観を前提とした、極めて個人的性格の強いものである。そうであるならば、そういった政治的個人や人権という近代民主主義的な概念が誕生しておらず、宗教の教義や共同体の掟といった集団的性格の強いものが人々の行動規範や思考様式に多大な影響を与えていた中世という時代においては、その時代に生きていた人々が娼婦に対して抱いていたイメージもいくらかは社会的、宗教的な性格を帯びたものになるのではないか、果たして中世にも娼婦が存在していたという事実のみを以って、中世の人間が我々と全く同質のセクシュアリティを共有していることを想定し、娼婦を単なる性欲の捌け口として位置付けてしまうのはあまりに早計といえるのではないだろうか。本論文は、中世に生きた人々が共有していたセクシュアリティや、当時の社会的、思想的背景を明らかにしつつ、中世ヨーロッパにおける「娼婦」の社会的意義に迫っていこうという試みの下、執筆したものである。  

一章 結婚
 結婚と売春を対極に置く現代の価値観に照らして考えた場合、両者の間に関連性を見出すのは難しい。しかし、結婚生活には性行為が常に付き纏う、という事実について考えた時、売春と結婚の間に横たわっていた距離は急激に狭まっていることに気づくだろう。まだ愛という概念が現在ほど称揚されていない中世という時代において、セクシャリティという観点から結婚は売春と本質的にはそれほど変わらないものだったのである。ジャック・ロシオも「性行為が罪深いとされる(あるいは聖化される)程度とそれ自体相対的な娼婦の社会的地位が連動している」と『中世娼婦の社会史』の中で書いているように、キリスト教初期から十二世紀までの長きにわたって「汝、姦淫するなかれ」と「産めよ増やせよ地に満ちよ」という二つの矛盾する教えの中を揺れ動き、最終的に教会の秘蹟となった結婚という制度について考えることは、中世社会においてなぜ売春が公認されていたのかを考察する上では重要な指針となる。本章の目的は、結婚がいかにして中世に教会の秘蹟となるに至ったのか、その過程を概観することによって、中世におけるセクシャリティの諸相を明らかにすることにある。  

1.イエス・キリストの結婚観
 教会の結婚観の土台を構成していたのは『旧約聖書』の「創世記」の中の記述であり、そこでは四つの命題が示されていた。一つは人がひとりでいるのはよくないということ、もう一つは「男」の副次的存在として「女」が作り出されたということ、更にこのふたつの肉体はひとつになることを運命づけられているということ、そして最後の一つは結婚によって男女間の不平等が無くなるわけではない、ということであった。イエスはマタイ伝十九章六節において「神が結び合わせてくださったものを人間が離してはならない」と言っている。この言葉は婚姻の解消不可能性を示しているが、女の側の姦淫が原因となる場合においてのみ婚姻の解消は例外的に認められており、この段階から既に女性の身体性は罪と結びつけてられていた、と考えられる。またイエスはコリント前書七章十七、二十七節において「妻と結ばれているなら、そのつながりを解こうとせず、妻と結ばれていないなら妻を求めてはいけません」とも言っていることから、イエスが結婚を承認する一方で、純潔を推奨する立場をとっていたことが推測される。

2.パウロの結婚観
 新約聖書においては、福音書はどれも、セクシュアリティについては極めて控えめな見解を示している。結婚についても、一夫一婦制で生涯連れ添うことを条件に褒め称えていた。聖パウロは、コリント人への第一の手紙の中で「大切なのは神の掟を守ることです」と書いている。ここでいう神の掟とは、天地創造に典拠を得た女性は男性に従属する存在であるという事実のことであり、このことからパウロは結婚の機能を造物主と被造物、神と教会の間の関係を地上のスケールで再現することであると認識していたことが窺える。エペソ人への手紙において、パウロは次のように語っている。「主に仕えるように夫に仕えるのである。キリストが教会の頭であるように、夫は妻の頭なのだから。(中略)夫たるものよ、キリストが教会を愛したように妻を愛しなさい。」このパウロの理論によってキリスト教における結合の理念は崇高化され、結婚の解消不可能性は一層厳格さを帯びることとなる。しかしあくまでパウロにとって結婚は譲歩されたものに過ぎず、自らを抑制することができるのであれば独身を貫くのが望ましいと説いている。  

3.肉体の拒否
やがて教会内において聖体の秘蹟の執行が一種の供犠と見做され始めると、その執行者や参加者に対して節制が求められるようになり、肉体を穢れたものとして忌避する傾向が表れ始める。そこには宇宙を精神と物質の戦いの場として捉えたストア派をはじめとするオリエント知識人の影響がみられる。このことには古代ギリシア・ローマ世界においては、宗教の代わりに哲学上の諸派が情念に関わる役割を演じていたということが密接に関係している。そのような現世否定、肉体忌避の価値観において、結婚は姦淫と結び付けられて考えられるようになった。そしてローマ教会の教父たちもこの考えを継承していく。なかでも聖ヒエロニムスは結婚と女性に対して最も苛烈な闘争を繰り広げた教父の一人で、彼はアダムとイヴの肉体は堕落の後、神の呪いの中で結びついたがゆえに、「あらゆる結婚は呪われている」と考えた。彼は、処女を生み、天の住人の数を増やすことに寄与すること以外に、結婚を正当化するものは何もないとして女性の身体性に原罪の根源を見出し、自著である『イオウィーニアーヌス反駁』は、後代純潔を称揚し結婚を断罪する際や婚姻外の内縁関係を正当化する際に広く利用されることになった。  

4.アウグスティヌスの結婚観
このような肉体忌避の大きな流れの中にあって、キリスト教における結婚観の画期となったのが、聖アウグスティヌスの結婚観である。彼は情欲を媒介としてセクシュアリティと原罪を決定的に結びつけた人物であり、立場としては前述したヒエロニムスやグレゴリウスの立場を踏襲したが、態度を軟化し、結婚は罪であるがそれはより欠陥の少ない罪であり、贖うことができるものであるとした。青春時代に放蕩の限りを尽くし、肉の喜びへの抗い難さを知っていたアウグスティヌスによって編み出されたこの合理的な思考様式は、これまで既婚者と独身者の間に設定されていた善悪の境界を既婚者と姦淫者の間に移動させることになった。また、この結婚に対する譲歩の背景には、女性は本性的に多情であり罪に傾きやすい存在である、とするキリスト教の伝統的価値観があり、女性の官能に手綱をつけることが結婚の機能の一つとして期待されていた。つまりアウグスティヌスにとっての結婚とは「精神による肉体の支配」という最初の序列の再現であり、同時に彼の結婚観は「悪は性に由来する」という認識の確立を示している。  

5.カロリング朝時代の結婚
カロリング朝の時代になると、教権と俗権の結合によって社会秩序が形成されていく過程の中で、世俗社会の基盤を固めるには結婚を断罪するよりも、道徳的生活の枠組みとして利用しようとする動きが教会の中で起こった。当時の聖職者は貴族に向かって一夫一婦制、族外婚、快楽の抑制の三つの要素を結婚のモラルとして強調した。その中の一人、オルレアン司教ジョナースは『俗信徒教育論』の中で、結婚は「最悪の敵たる肉欲に向けられた武器」であり、「淫蕩という病を治すための薬」であるとして、禁欲ではなくあくまで節度を求めるという、身分に応じたモラルを説いた。中世社会においては、自身が所属する身分ごとに守るべき法が存在していたのである。また、ジョナースは、結婚の中に造物主と被造物の関係の神秘のイメージと世俗の政治的秩序の反映という二つの要素を見ていたのであり、そこにはカロリング時代の聖職者たちの現世の政治的な要請に迎合しようという努力の痕跡が窺える。また、ジョナースは結婚には三つの段階があると指摘する。最初の段階は原始的な衝動を規制するためだけの結婚であり、ジョナースにとってこれは単に罪への譲歩に過ぎない。第二の段階は子孫繁栄を目的とした結婚であり、これは推奨される。そして最終段階というのは、一切の性的なものが一切排除された、友愛に満ちた共同生活のことを示している。ジョナースは、この最終段階の実現不可能性を認めた上で、少しでもこの段階に近づけるよう努力する必要があると説いている。
ランス司教ヒンクマールは、アウグスティヌスに並びキリスト教的結婚観の画期となった人物である。それはヒンクマールが結婚を「同一身分の自由な人間同士の正しい結婚とは、適切な嫁資を持った女性が、両親の許可を経て、公的な結婚式において自由な男と結ばれ、その後、性行為を営むことである」と明確に定義したことにある。この定義は教会の見解ではなくヒンクマール独自の考えではあるものの、初めて聖職者によって結婚の中で性行為が中心的な役割を与えられた、という観点から大きな意味を持っている。また彼は結婚を、当時蔓延していた略奪や誘拐などの暴力に対する砦として示した。つまり結婚という契約によって、女性の分配が平和裡に行われるとして、世俗の非宗教的儀礼を称揚したのである。当時まだ結婚は世俗の法により、人間社会の慣習に従って絆が結ばれるという、自然法に基づくひとつの社会制度であり、民事裁判の領域に属するものだった。九世紀の北フランスでは王妃に関する場合を除くと、婚姻の祝別について文書の中で言及されることはなく、その場合も国王の聖別式の定式の一部として記されているだけであり、その後の婚礼の宴席には司教には出席しないのが常であった。
しかしこのカロリング朝時代に、王国の神聖化とともに緩慢にではあるが、しかし着実に結婚の神聖化が準備されることになった。様式の外観に関しては全く世俗のものと変わらなかったが、一方であるモラルが浸透し始めていたのである。一つは、妻は一人という福音書の掟であり、そしてもう一つは七親等までの親族の女性との結婚の禁止だった。ただ、八二九年にパリの教会会議において発布された二つ目の禁令に関しては、七世紀から八世紀にかけてグレゴリウス大教皇が七親等以内の者同士の結婚は無効であると主張したことを伝えるスポンサ・グレゴリィと呼ばれる文章が既に存在していたことが明らかになっているが、なぜ七親等以内なのかということに関して明確な根拠が示されておらず、範囲がかなり広範に及ぶがゆえに違反が続出した。更に万が一近親結婚が発覚した場合には離婚を強いられるため、結婚の解消不可能性を示す最初の要請と根本的に対立することになる。最終的にこの矛盾した規定は教会の意図するところから外れ、貴族たちの間で妻との離縁を正当化するための口実として使われることになる。  

6.聖職者のモラルと戦士のモラル
ここまでキリスト教的な観点から結婚観の変遷を概観してきたが、中世における結婚観を立体的に把握するためには世俗社会において結婚が占めていた位置も理解しておく必要がある。これまでに見てきた聖職者の結婚のモラルと対立する存在が土着の精神、即ち戦士のモラルである。当時の貴族たちの価値体系の土台となっていたのは「肉体と魂の雄々しさ」、プロビタースという概念であり、その第一等の資質は血によって継承されていくものと考えられていた。ここに当時の貴族社会における結婚の第一の機能が見出される。それは自分自身のうちに祖先の姿をよみがえらせることができるような息子を産むことができる女性を迎え入れることであり、その最大の目的は「血の伝達」に他ならない。そのためなかなか男児を生まない妻を離縁したり、一層栄えある結縁の機会が訪れると妻を取り換える権利が認められていた。またフランク族の婚姻法では、嫁資を支払い、妻の父親から家父長権を買い取ることによって成立する正式の婚姻契約である家父長結婚の他に世俗の価値体系を損なうことなく若者の性的活動を秩序立て、遺産を守るための手段として、配偶者や子供に正式な相続権を与えない「和合結婚」という事実上の内縁関係も認められていた。つまり中世の貴族たちにとって結婚の焦点となっていたのは、「自身の正式な後継者に相続権を保証すること」だったのであり、両性による合意のみが完全な結婚を成立させるとしていた教会は結婚に関する裁判権を主張するにあたって、これら世俗の習慣との長きにわたる戦いに直面することとなる。しかし、聖職者の説くモラルとこれら戦士のモラルは女性による姦淫を脅威と見做しているという点においては一致しており、単純な善悪二元論的な対立関係の図式にあったというわけではなかった。また、社会の下層においては教会の示す結婚の形態が野合や同棲という極めて世俗的な形に取って替わっていったことがわかっている。大土地領主のような支配階層にとっては、領民の夫婦が結婚してその土地に定着することが、所領の資本増加という形で領主の利益に与していたのである。つまり、結婚がキリスト教化することへの世俗の反応は、一様ではなく、階層によって異なっていたと考えるべきであろう。  

7.ブールヒャルトの『教令集』
一○○○年代に入ると至福千年説において予期された終末の到来に対する不安は政治と倫理の合一化を促し、教会内部では最後の審判に備えてキリスト教社会に清浄を取り戻そうとする動きが活発化した。そのような動きの中心となった司教の一人、ヴォルムス司教ブールヒャルトは正しく罪人を戒め、罰を課すためには規範となる原典をいつでも参照可能な状態にしておく必要があると考え、そのような意図を以って「教会典範」の集成である『教令集』を編纂した。この教令集は十二世紀半ばにグラティアヌスの教令集が普及するまで、帝国内のドイツ、イタリア、ロートリンゲン、北フランスなどの地域において、教会指導者たちの考え方と行動の土台として利用され続けることとなる。この教令集の中において、ブールヒャルトはカロリング時代の、結婚を社会的な制度として性的な問題からは分離する伝統を踏襲した。また正式な結婚の成立においては双方の親族による同意が最も強調され、誘惑や誘拐によって娘が了解なしに親族から引き離され奪われた場合には、この男女は最終的に別れなければならないとした。このように『教令集』編纂の際に集められた原典においては、高位聖職者は近親相姦による結合だけではなく、自身の裁量によって他の多くの結合を解消することも許されていた。  

8.異端と結婚
世俗の騎士階級において結婚が配偶者双方に等しい権利のある結合から、夫が主人として君臨する小さな君主制へと変化し始めていた時期と、教会が異端と呼ぶ運動が起こった時期が十一世紀の初めにちょうど重なっているのは興味深い一致であるとジョルジュ・デュビーは言っているが、これらの異端運動は至福千年説に基づく「紀元千年の恐怖」によって喚起されたものであった。彼ら異端の指導者にとって、結婚とは悪しき俗世に属するものであり、そのような儀式に司祭による祝福が伴うべきではないと婚礼への教会の関与を否定した。また一方で、この異端と呼ばれる運動は「封建制」という新たな権力分配の定着に対する抵抗の一形式、という側面も持ち合わせており、異端は社会の中で抑圧を感じていた人々を支持者として取り込んでいった。そのような状況の中で、多くの女性が異端の支持に回ったのも、冒頭で説明した騎士階級の結婚における女性の地位低下との関連が考えられる。異端の指導者が結婚への教会の関与を否定したのは紀元千年を控えた現世離脱、肉体否定の実践という、自己浄化の意図があってのことだったが、支持者が意図していたのは婚姻の手続きへの教会の干渉を妨害することであった。貴族たちにとって、家門の権力の永続化を実現させるための手段の一つであった結婚の管理の全てを聖職者に委ねることは到底承服できないことだったのである。
これらの異端の論理に応戦したのが、カンブレ=アラスの司教ジェラールだった。彼の主張は、教会の制度を擁護した上で身分の区別の必要性を認めるというものだった。彼は、人には神意において振り分けられた身分に応じた役割があると考えたのである。確かに純潔を守るためには結婚が禁じられねばならないが、人間は最後の審判の日まで生き延びる必要があり、そのためには女に子供を産ませなければならない。ゆえに民衆と神の間の関係を整える導き手たる聖職者には純潔が、一方で貴族と農奴には種の存続という役割が別々に与えられているのである。しかし、この生殖という機能は同一身分の間において行われる時のみ最大限に発揮されるとされ、身分違いの結婚は禁じられることになった。信徒はすべて平等であるという異端の主張に対して、ジェラールは階層化された社会を対置させることによって、聖と俗という二重の道徳が支配する社会を作り出したのである。こうして結婚に関する聖職者のモデルと貴族のモデルが相互に整えられた。しかし、教会改革の推進者は次第に夫婦関係を肉体と分離するように呼びかけるようになり、両者の間に不一致が現れ始める。彼らは結婚の典礼において世俗の要素が強い婚礼の役割を小さくする一方で、魂の結合を示す婚姻契約の役割を重視し、意志の一致、双方の合意と夫婦関係の絆である「慈悲」を強調した。ジャック・ル=ゴフは中世を「一貫して意味をずらしていくことによって、最高の権威である聖書を、性的実践の大部分の抑圧を正当化するために用いてゆくそのプロセスのことである」と捉えたが、この貞潔の要請に、婚姻の契約を管理しようという意志が加わることによって、まさに結婚は次第に世俗の慣習から霊的なものへとずらされていき、最終的に聖職者の支配下へと収められていったのである。一〇九六年のクレルモン公会議においてウルバヌス二世が国王フィリップ一世の結婚の問題に対し破門という決断を下したことは、カロリング時代の伝統を離れ、教会が結婚に関する権利の独占を主張していたことを象徴している。  

9.結婚と十字軍
一連の結婚に関する神学上の議論は十字軍にも少なからず影響を与えた。十字軍従軍者の妻の問題である。ウルバヌス二世が十字軍を提唱したクレルモン公会議が開かれた一○九六年という時期は、ちょうど教会が結婚に関する諸権利を主張し始めた時期と重なり、結婚の誓いは神の前で立てられるものであるというのが教会の見解だった。この同じ神の前で立てられる結婚の誓いと十字軍の誓いが重複したとき、どちらの誓いが優先されるべきかということがこの時期盛んに議論されたのである。そのことについて、シャルトルのイヴやウルバヌス二世は、結婚の誓いを優先すべきであり、妻を持つものは妻の同意なしには十字軍に参加してはならないという見解を示した。ここに、結婚は両性の合意によって成立するという、現代において一般的になっている結婚に対する認識の土台が形成されることとなった。教皇インノケンティウス三世は全ヨーロッパ的事業である十字軍の重要性を強調し妻の同意が無くても十字軍に従軍することは可能であると一二○○年に勅書を、一二○一年に教令を出し主張するも、当時のローマ法学者や教会法学者たちはイヴの見解を重視し、依然として結婚の優越を主張し続けた。このことは、この時期の教会におけるローマ教皇権の影響力が絶対的なものでは無かったということを示しているのではないかと考えられる。また中世神学の最高権威とされているトマス・アクィナスも「結婚した男の第一の義務は妻のために配慮することであって、ほかの義務のために第一の義務がおろそかになってはならない」という見解を一二七一年に示しており、妻の同意なしには十字軍に参加することはできないとした。この時代、グラティアヌスの教令集を典拠として性的な関係において夫婦は対等であるという考えが教会の内部に広まっていった。しかしここでいう「対等」とはあくまで性的な関係の中に限った話であって、男女の政治的対等を意味するわけではないということには留意しておく必要がある。  

一二一五年に開催された第四回ラテラノ公会議は、中世キリスト教の歴史において大きな転換点となった会議である。まず信徒に聖体拝領と年に一度の告解が法的に義務付けられることが決議された。中でも告解の義務化はヨーロッパにおける個人の成立に大きく寄与したとして、ミシェル・フーコーは「ヨーロッパ史において最も重要な出来事であった」と言っているが、本章において最も強調されるべきは、この会議で正式な婚姻には司祭の祝福が不可欠であるということが、法的に決議されたことである。ここに、聖ヒエロニムスによって「呪われている」とされた結婚は、あくまで教義上ではあるものの、とうとう教会の扉の前で結ばれるべき秘蹟となったのである。また、同時に近親婚の禁止緩和も行われ、その禁止の範囲はそれまでのカノン法の親等算定法基準の七親等から四親等まで狭められることとなった。しかし依然として教会の前で結ばれない結婚、秘密婚の問題は一向に減少することはなく、結局のところ、十六世紀のトリエント公会議で禁止規定が制定されるまでの長い間、秘密婚は悪習ではありながらも純粋な結婚としてみなされているという状態が続くことになった。  

二章 売春
ジャック・ロシオの言葉を借りれば、中世において売春とは、「合法的な婚姻関係と非合法の愛に生きる周辺部との間にあった灰色の領域」であったという。この「灰色の領域」という言葉は、教会によって秘跡化される前に、キリスト教的価値観の中で結婚が置かれていた立場を示すものでもある。また彼は「公認の売春に対する社会的あるいは道徳的価値は、売春の周りの環境によってのみ決定されるべきものである」とも言っている。売春の周りの環境とは、つまり都市のことである。もちろん農村でも売春は盛んに行われていたし、縁日や定期市などの催しに合わせて各地を渡り歩く娼婦も存在していたので、売春の発展にとって都市が唯一好適な場であったとは言い難いが、売春が複雑な諸形態をとって制度化されたのは発展途上の都市社会においてであった。本章では、まず都市社会において売春がどのような機能を果たしていたのか、そして売春が行われていた社会の背景について論じることによって、中世社会における売春の実像に迫っていく。

1.社会的売春の誕生
 ジャック・ロシオによると「十二、十三世紀に成立した複雑な都市社会が娼婦の小社会を必然的に生み出した」という。つまり中世都市における売春は社会的性格を有しており、様々な種類の売春が様々な需要に対応する形で存在していたのである。その背景を踏まえた上で、売春の社会的意義を理解するためには次の三つのことを知る必要があるとロシオは言う。一つは人口や結婚の構造、次に特定の社会集団が持つ文化的価値や集団心性、最後に性の異常や逸脱現象である。そこでまずは、複雑な都市社会が成立したと推定されている十二世紀における都市の人口状況から見ていくことにする。  

2.都市における人口の構造
十二世紀という時代は、経済的・政治的な面においてヨーロッパが主役となった時代だった。地中海貿易や十字軍による交換の発展は商業の発展を促し、三圃制と重量有輪犂の普及による農業の進歩は不自由身分であった農民を領主の支配から解放し、労働力に流動性を与えた。この流動人口こそが、都市社会において売春の成立に大きく寄与した要素の一つであったと考えられる。またこのような経済的変化は女性の地位にも影響を与えた。都市では全住民に対して配偶者の自由選択が保証されており、移住した女性の大半は自身の配偶者とともに働いた。中世の仕事は一般的に家族の線に沿って形成されていたため、商人の妻や娘は多くの場合価値のある労働力の構成員として見做されていたのである。さらに、男系女系を問わず自由な財産権、相続権も認められており、夫が早く死んだ場合にはその仕事が妻に相続されることもあった。このような都市の自由な空気は裕福な商人の妻に移動の自由と教育などといった交易の発展による恩恵を十分にもたらしたが、一方で貧困層に属する女性は都市化の恩恵を殆ど受けることができなかった。そして実際のところ、男女ともに都市住民の最も大きい比率を占めていたのはかつて農村に住んでいた貧しい人々だった。中世の下層民にとって、個人の自由という権利を得られる場所は都市の他に無かったので、都市はこうした魅力を餌に農村居住者を誘引していたのである。その結果、荘園と都市のスラムの間に頻繁な移動サイクルが発生することになった。この負のサイクルから抜け出す手段として、貧困層の女性の多くは娼婦になる道を自ら、もしくは強制されて選んだ。多くの都市民にとって、公的売春は卑しい行為から抜け出すまでの一つの段階として考えられていたのである。  

3.都市における結婚の構造
 前章では、世俗の慣習であった結婚が教会の秘蹟となるまでの過程と、王侯貴族の結婚について見てきたが、ここでは、都市の手工業者の結婚事情についても目を向けることにする。ジャック・ロシオがフランスの都市に住む一四四○年から一四九○年の間で夫婦それぞれが同じ日に自分の年齢を述べている二四一組のカップルを集め、年代別の夫婦間における年齢差の平均を調査したところ、夫が妻より若い場合は一四・五パーセントであるのに対し、夫が妻より年上の場合は実に八五・五パーセントを占めていた。さらに夫の年齢が上がるにつれ徐々にその年齢差は開いていき、三○歳未満の夫は平均して四・二歳妻より年上で最大年齢差は八歳となっているが、三○代では平均六歳年上で最大年齢差は一六歳、四・五○代では平均年齢差は十一歳、最大年齢差は三四歳となっている。そしてそれらの結婚の殆どは寡夫による再婚である、ということにも注目しておきたい。この結婚構造は、フィレンツェ、ランス、ディジョンといった中世の複数都市においても見られることから、十五世紀の結婚の秩序においては、女性の若さこそが最も重要な要素であったということを示している。  

4.特定の社会集団が持つ価値観と集団心性
 寡夫と若年女性の再婚という都市の結婚構造は、独占、とまでは言えないが、結婚適齢期に達した男性に対する同年代女性の均等な分配を妨げ、若者と呼ばれる層に性的なフラストレーションを齎した。そして、蓄えられたフラストレーションは彼らを犯罪行為へ向けることとなる。この時代の若者たちは実家を去らない限りは父親や義父の後見の下におかれ、また金も職も無いために晩婚を余儀なくされ、それでいて権力や職務は与えられないという、所謂「半人前」の扱いを受けていた。そういった事情も手伝って、婦女暴行や警吏への襲撃などといった犯罪行為は後見人の影響から離れ、自身の存在を誇示したいと考える若者たちにとって、男らしさを証明し、集団の一員として認められるためのイニシエーション的な役割を果たしていたのである。若者たちは徒党を組み、聖職者の妻や娼婦、小間使いや寡婦といった、とりわけ社会の保護を失った下位の身分に属する女性たちを次々と犯していった。高貴な身分に対して犯される罪は、下位身分に対して犯される罪よりも重かったのである。中世において強姦、とりわけ集団暴行の被害に遭うということは、既婚婦人は夫に捨てられること、独身女性は結婚市場における価値を失うことを意味しており、女性にとってはまさに「社会的な死」と同義であった。また、強姦について証言することは体面を大いに汚すことになるため、被害者は告訴することもできず、泣き寝入りするしかなかった。ディジョンでは、一四三六年と一五三二年の間に、二○七件の強姦が摘発されたが、こうした暗数の存在も考慮に入れると、このような強姦は都市社会において頻繁に起こっていたものと考えられる。こうして都市社会というコミュニティの中に居場所を失った被害女性の前には、もはや娼家へと続く道しか残されておらず、この集団暴行が都市の娼家にとって供給源の役割を果たしていたことは間違いないだろう。  

5.性の異常や逸脱現象
 売春の規模とその社会的意義を知るために必要となる最後の要素は、その時代にどのような行為が性的な逸脱と見做されていたか、ということである。十五世紀においては、身分の高い人々も法曹も、娼館へ通う若者の性行動を何ら軽蔑しておらず、寧ろ何日も娼館に滞在し、豪遊するような者へと人々の不安と疑いの目は向けられていた。このモラルは、カトーが売春宿で会った若者に言ったとされる「お若いの、ここによくくるのはいいことだ。しかしここにとどまるのは感心しないな」という言葉に如実に表れている。つまり、売春宿に行くこと自体が問題なのではなく、快楽に溺れ、そこから現実へと引き返せなくなってしまうことに問題があるのだ。若者の性的フラストレーションが犯罪行為や暴力へと繋がっていったこの時期にあって、売春は彼らの欲求のはけ口としてその機能を十分に果たし、都市社会の秩序に寄与していたのである。それどころか、ジャック・ロシオによれば娼館に行くことは年齢集団などのコミュニティによって強制されていたという。娼館に行く、ということは自身が社会的・生理的に正常であることを証明するものであった。この事実からは、前述した犯罪行為と同様に、性交渉もまた若者たちにとって「男」になるためのイニシエーションとして認識されていたという点と、集団の一員として認められるには社会的、生理的に正常であるかということが重要であったという点を見出すことができる。即ちこの時代においては自然に従った結果としての罪よりも強姦や同性愛、自慰行為のような自然に反する罪の方を重く見る傾向があったのである。十二世紀に現れたこのような考え方は十三世紀末、トマス・アクィナスやリチャード・ミドルトンによって強調され、ついには生殖以外を目的とした性交が認められるに至る。公益のためには悪の存在も許されるとし、公認売春を都市のひとつの機能であると見做す彼らの論理の下で、快楽目的の性交は相互の同意にのみ基づく結合として定義され、娼婦は労働者のカテゴリーに含まれることになったのである。このような過程を経て、都市における売春の制度化の土台が着々と準備されていった。  

6. 聖職者と売春
 こうして生殖目的以外の性交が認められるようになった一方で、聖職者と既婚男性に関しては理論上、公営の売春宿に近づくことは禁じられていた。しかし、その禁止が守られることは殆どなかったようだ。その理由として、娼館を立ち入り捜査する習慣が夜警の中にはなかったことや既婚男性には地位の高い人が多く、金払いがよかったということが挙げられる。しかし、どこでもこの禁止が無視されていたというわけではなく、例えばケルンでは娼婦自身が、警察と協力して違反者を逮捕することもあった。同市では、万が一現行犯逮捕に成功すれば、協力した娼婦には違反者から略奪する権利が与えられていたこともあって彼女たちは捜査にとても協力的だったようだ。また、ジャック・ロシオの研究によると、ディジョンでは浴場と市営の売春宿の客層の二○パーセントを聖職者が占めていたという。それでも彼らは嘲笑こそされ非難されることは無かったという。当時、全ての聖職者が完全な禁欲を実践できるわけではないという認識は世俗の人々の間ですでに周知されており、寧ろ人々にとって真に脅威だったのは聖職者に自身の妻や娘を寝取られることだった。また、中世において公衆浴場は公然の売春施設となっていたが、浴場の所有者には司教や修道院長など、高位の聖職者たちが名を連ねていた。彼らは借り手の浴場主の活動については十分に承知した上で黙認していたのである。このように本来世俗の信徒の導き手となるべき存在であったはずの聖職者が、客としての利用のみにとどまらず、売春というシステム自体に加担していたという事実は、売春や結婚、そして中世という時代に一貫して通底するダブルスタンダードを象徴していると言える。  

7.都市における売春の構造
どの都市においても売春の斡旋を率先して行っていたのは都市当局や君侯の役人だった。そこにはあくまで管理の枠内の中である程度の恩典や特権を与えることによって、行き過ぎた性的逸脱に歯止めをかけようという上からの意図があった。まずは娼婦を一定街区へと集中させることに始まり、娼家を建設し、刑吏に監督を任せ、外科医による検診や目印の着用を義務化した。更にアフターケアとして足を洗った娼婦を受け入れる教会施設の建設も行った。当局が実施したこれらの施策は、売春という「職業」に従事する娼婦たちを「差別」するものであると同時に「保護」するものであるという両義性を抱えていた。都市当局によって認可された娼家で働く「公娼」となるためには合格しなければならない二つの基準が設けられており、一つは快楽の為ではなく、稼ぎのために自分の体を金で貸すことであり、もう一つは余所者か独身者、あるいは寡婦のように社会のあらゆるしがらみから自由であることだった。前者はあくまで売春を生計手段として倫理上正当化するための便宜上のものであったが、後者は公人に対して犯された罪は私人に対して犯された罪よりも軽くなると考えられていたことから来ている。そして都市に受け入れられた公娼は市当局に宣誓し、部屋の家賃を女主人に払い、自分たちを守ってくれる夜警に白ワインを配ったりした。料金はだいたい白ワイン一本分と言われており、これは女性のブドウ畑での労働半日分に相当する。更に一晩を一人の男性に捧げた場合には三―六倍の金額をとることが許されていた。  

8.寛容の終わり
このように十五世紀において、売春は都市の人口構造、秩序や道徳によって自然に生み出され、公権力によって承認されてきたが、やがて諸都市において売春を禁止することになる様々な兆候が次第に見え始めてくるようになる。都市に売春が広がっていたことは女性の地位が不安定であったことを象徴する事実であったが、十六世紀に入ると女性は徐々に社会の中に場所を獲得し、アイデンティティを確立していった。ピューリタンとの宗教上の論争がこれまでの夫婦間の関係を変化させたのである。苛烈な論争の中で教会の態度は次第に硬化していき、結果として、内縁関係を持っていた司祭や娼婦の保護者であった売春宿の女将が非難を浴びるようになった。また、娼館で人殺しや喧嘩などの犯罪が多発するようになり、貧困層の増大は労働市場における女性の価値を低下させた。このような社会の混乱の中、都市当局は教会と国王の支持を得て、浴場を閉鎖、聖職者の内縁の妻や娼婦を徹底的に追放した。都市の娼館は次々と姿を消し、それとともに売春も消えたわけではなかったが、再び不寛容と軽蔑の世界へと引き戻されることになったのである。  

第三章 娼婦
 一章では結婚が教会の秘蹟となるまでのプロセスを概観することで、聖と俗両方の側面から中世におけるセクシャリティの諸相を、そして二章では都市社会の中で売春が成立し、発展していった背景を探ることで、当時の娼婦たちが置かれていた環境を、それぞれの代表的な先行研究の成果を基に明らかにしてきた。本章ではそれらの要素を踏まえた上で、いよいよ中世に生きた人々にとって「娼婦」という存在はどのような意味を持っていたのか、その核心について迫っていく。  

1.誘惑する性としての女
娼婦とは何か、即ち娼婦とは女のことである。このテキストは現代の感覚からするとただ当たり前の事実を述べているだけのものに過ぎないが、中世的な価値観の中ではこのことは特別な意味を持つものとなる。中世社会において、娼婦とはまさに女であるがゆえに娼婦だったのである。アウグスティヌスによって原罪が肉の罪と決定的に結び付けられて以降、アダムを誘惑し、楽園追放を招いたエヴァの罪は、受胎の際に女性の子宮を通じて後世に伝えられるものとなった。出産や月経に伴う苦しみはエヴァの呪いとされ、女性の身体を持つということ自体が、簡単に罪に傾きやすく、弱い存在であると考えられるようになった。そのような価値観の中では、とにかく女性は手酷く奪われなければならない存在であるとされ、ジャック・ル・ゴフは、中世の女性が置かれていた立場について、「女性は原罪を性的な罪に転換した神学者たちの手品のツケをその肉体の中で支払うことになった」と語っている。彼の言葉が正しければ、このようなキリスト教的男尊女卑構造は、聖職者たちがいかに純潔を保とうと努めてもその性欲を完全に断つことができないということに対する責任を、エヴァの誘惑を根拠に自身から女性へと転嫁することで成り立っていたと考えられる。それに対して、イエスの母でありながら受胎も出産もしなかったマリアは、エヴァの過ちを償うために現れたとされ、完全さを体現する理想的な女性のイメージとしてたびたび教会に利用されてきたが、それはマリアを女性の手本として示すためではなく、マリアと比較することによって女性の不完全さを強調し、貶めようとする意図があってのことだった。フランスの詩人クリスティーヌ・ドゥ・ピザンは当時の女性が置かれていた立場について、次のように語っている。「我々罪のない女性は、男たちによっていつまでも呪われるでしょう。彼らは自分たちには全てが許されていて、しかも掟をのりこえても良いと考えています。ところが私たちには何も許されていません。男たちはどうしようもないほど堕落していて、私たちが、少しでも視線をそらそうものなら、姦通の罪を犯していると責めるのです。私たちは妻でも伴侶でもなく、敵陣に捕らえられた捕虜なのです。」この伝統的な女性観に表面上の変化が現れるのは十二世紀の後半から十三世紀にかけてのことであった。  

2.悔悛した娼婦としてのマグダラのマリア像
 かつては異端を信仰する娼婦であったが、イエスによって救われ、その復活の最初の証人として最初の隠修士となり、のちに聖人となったマグダラのマリアは、中世において最も愛された聖人の一人である。そしてその重要性は彼女の聖性が、かつて罪人であったという、他でもない彼女自身の汚名によって担保されていた、という点に示されている。純潔を推進するキリスト教にあって、彼女が売春と特別な関係にあったという事実が隠されることなく公然と詳述されていたことは、例え罪深い娼婦であっても悔悛さえすれば聖人になることもできるという道が開かれたことを意味していた。このことが実際の娼婦、そして女性の地位が向上したという事実を必ずしも示しているわけではないということには留意しておかなければならないが、十二世紀に「悔悛した娼婦」としてのマグダラのマリアの地位が拡大し周知されたことは、多くの司牧者にとって、娼婦を非難の対象から、救済の対象へと変質させ、性産業に従事する女性の救済を目的とした汎ヨーロッパ的な運動を喚起した。十三世紀初頭になると修道院は悔悛した娼婦の受け入れを始め、聖職者は娼婦たちに結婚を勧め、一二二七年にはローマ教皇からも正式な承認を得ることとなった。その結果、フランスやドイツなどのヨーロッパ各所に娼婦の収容施設が見られるようになり、悔悛した娼婦がその身に纏った白い修道服は、救済された女性を示す宗教的な象徴となっていった。  

3.娼婦と衣装
前節で、白い修道服が救済された女性を示す宗教的な象徴になっていたことについて少し触れたが、中世において、人々がその身に纏う衣装は色濃い社会的指示機能を有していた。ミシェル・パストゥローは、当時の現実および創作において縞模様の服を纏っていた人々の間に、社会から排除、排斥され、悪魔と関係を持っていたと見做された者、という共通点を見出した。教会の道徳的逸話や法的規約といった教説文もまた、華美な衣装を売春と強く結びつけたが、多くの女性も娼婦もそのようなテキストに従うことはなかった。Nickie Robertsは「娼婦の収入は彼女たちが中産階級と同じ衣装を身に着けることを可能にし、それは憤慨した人々にとって性的な罪と同程度に罪深い社会的な罪であった」と書いている。当時の衣装にはもう一つ、強度の威信機能も備わっていたこともあり、富や地位の高さ、趣味の高尚さ、権力の大きさを象徴する華美な衣装を、娼婦が身に纏うなどということは、到底許されないことだった。そのため、立派な服装の夫人と娼婦を明確に区別するための方法が市当局に要請されることになる。
その方法は都市の中でしばしば倹約令の形をとって表れた。これらの法的規制の第一の意図は過度な消費を抑制し、曖昧な階級の区別を明確にすることにあり、その条文には、識別票の装着や、特定の色の布地を纏うことを義務付けるなど、娼婦の服装に対する規制も含まれていた。Leah Lydiaは一三二○年にペズナにおいて娼婦が「地面に引きずるほど長い裾のドレス」を着用することを禁じた法令を引用している。さらにこのような法的規制には娼婦と同一視されることを嫌った中産階級の女性たちに適切な行動様式を定義する効果もあった。James Brundageはペルピニャン市の指導者が娼婦に贅沢の規制を免除する法律を制定したことを引用している。この法律の制定には、あえて娼婦に贅沢な服装を許すことによって、中産階級の女性たちが奢侈に傾くことを抑制しようという、寛容の陰に巧妙に隠された真の意図があった。  

4.典礼劇に見る中世の娼婦と売春
 十二世紀末に上演された典礼劇、『ラザロの復活』のワンシーンにおいてマグダラのマリアの役を演じた修道僧が、娼婦のような衣装を身に纏って登場した、という記述がフルリー修道院の院本に残されている。勿論、娼婦の衣装は典礼の正装ではない。この娼婦の衣装は中世の劇場において典礼の正装ではない初めての衣装の一つだった。このことはフルリー劇の衣装革新として知られているが、いったいなぜこのような動きが起こったのか。Dunbar Ogdenを初めとする中世の劇場研究者は、この衣装革新を「進歩主義的な物語」と捉えがちな傾向があるが、Andrew J Gibbは中世劇場の象徴的な背景を踏まえた上で、これを新しい社会における自己同一性の構造との関連において論じている。では実際に、典礼劇におけるマリアの仮装は、女性の観劇者たちにどのように作用したのか。
Andrew J Gibbは「ラザロの復活」の中の二つのシナリオを例として挙げている。一つは、『aiguillette scenario』と呼ばれているもので、そこでは質素なコープを身に纏った、伝統的な回心後のマリアを示す仮装が示されたが、それは娼婦の証であった「赤い飾り緒(aiguillette)」を伴うものだった。彼女が娼婦であったという安心は自分たちの罪は告解を通して赦されるという、女性信徒の安心を反映していた。もう一つの例は、『long train scenario』と呼ばれるもので、こちらでは『aiguillette scenario』とは対照的にマリアは「贖罪の瞬間」に位置付けられた。そしてその姿は女性観劇者の「罪深い女」という自己認識と自己同一性を刺激し、「かつてマリアがしたようにあなたも罪深き贅沢を捨てなさい」という教訓を彼女たちに示した。マグダラのマリアが演じた「典型的な悔悟者」と「典型的な罪人」という二つの役割は、典礼劇作家と観劇者という広範囲にわたって作用した。「立派な女性」と「娼婦」そして「売春」を結びつけたフルリーの脚本は『ラザロの復活』だけではない。それが聖ニコラウス劇脚本の一つとして知られる、『三人の娘』である。この初期の神秘劇には、同時代の女性が経済的困窮から娼婦に身を落とすことへの理解が示されている。そのあらすじは以下の通り。一人の貧しい男が、自分の献身的な三人の娘たちに、自分が不運にも財産をすべて失ってしまったこと、そしてこれからどうやって生きていけばいいかわからないという旨の話をして、彼女たちの助言を求めた。すると、長女は体を売って生計を立てることを提案した。次女は地獄に落ちることを恐れてその提案に反対し、三女は主の慈悲を信じるよう懇願した。しかし、彼らの困窮による魂の危機は、聖ニコラウスの登場によって救われることになった。この劇において重要な意味を持つのはその大団円的な結末ではなく、討論の場面である。前半の討論シーンからは主に三つの解釈を見出すことができる。一つはこの討論が売春の賛否に関する神学的議論という点、もう一つは財産と社会的地位の喪失という市民の悪夢という点、最後は誰もが現実に直面しうる出来事であるという現実可能性という点である。そしてこれらの解釈はこの『三人の娘』が当時の不安定な社会的、経済的変化が生み出した不確実性を劇化した作品であったということを示している。また、この『三人の娘』は同じ題材を扱っていても脚本家の選択によって作品に込められたイメージが一変するという特徴を備えている。例えば、ヒルデスハイムで上演されていた初期の脚本は、基本的に三女の返答に好意的な内容であり、聖ニコラウスによる直接の干渉があったのに対し、フルリーの脚本では、長女が売春で生計を立てることを提案し父親を説得しようとした時点で、聖ニコラウスが自身の名を告げずに金銭を家の中に放り投げている。つまり、フルリーの脚本では長女の提案が聖人の犠牲の精神と結び付けられていたのである。以上のことから、フルリーの脚本は、初期のものに比べて売春や娼婦を二元論的、批判的な文脈で捉えずに、一定の理解を示そうとしていることが窺える。フルリーの脚本は、中世の売春や娼婦に対する態度が、時代や街を越えて変化したというRuth Mazo Karrasの主張を裏付けただけでなく、同じ地域や時代において不一致があったということを論証した。  

5.同時代、地域における不一致、ベアリヒの娼婦たち
 前述した「売春や娼婦に対する態度が、同じ地域や時代において不一致があった」という状況をもっとも的確に例証していたのは、ケルンのベアリヒ地区に囲われていた娼婦たちであった。他の諸都市では、十四、十五世紀の間に都市当局によって娼家での売春が公認されたことで、娼家に所属する「公娼」の格が何の特権も持たない街娼や私娼に対して相対的に上昇する結果になったが、ケルンでは全く逆の状況だった。当時、ベアリヒとアルテングラーベンゲッシェンの二地区がケルン当局によって売春を公認されていたが、体面を重んじる売春婦であれば誰でも、ベアリヒの娼家へと転落することを何よりも恐れていた。その証拠として十五世紀のケルンでは言うことを聞かない娼婦を「公の手でベアリヒに送り込む」という名誉剥奪刑が実際に存在していたのである。ヘルマン・ワインスベルクは当時のベアリヒの娼婦の状況について、次のように語っている。「ベアリヒの娼婦たちはまた、キリスト教徒のように聖なる秘跡を受けたり、聖別された墓に埋葬されることを禁じられ、名誉ある人々の交際を絶たれるほどの劫罰を受けていた。(中略)市内には他にも性悪の不名誉な女はたくさんいたが、卑しいベアリヒの娼婦ほど、この上なく卑しく不名誉なものはいなかった。」実際、このようなベアリヒの女に対する異常なまでの差別は、他国、他都市にもわずかしか例がない。保護と差別は常に、コインの裏表のような関係であった。  

6.中世ヨーロッパにおける娼婦の社会的地位
十三世紀以降、娼婦の周りを取り巻くモラルは大きく変化していった。一二五○年と六九年にフランスのルイ九世が出した布告がその発端となっている。聖王と呼ばれるほど敬虔なキリスト教徒であったこの王は、現世浄化の意欲に燃え、フランスのすべての都市、すべての集落から娼婦を追放しようと彼女たちの財産や衣服を没収するという法律を出した。この布告は、娼婦は街の主要な通りや教会、公共の建築物に近づいてはならず、違反した場合は都市から追放する、という内容のもので、それは女性たちを娼婦という罪深き職業から救い悔い改めさせるという聖王の意図があってのことだったが、全ての悔い改めた娼婦を受け入れるだけの居場所を提供することなどできるはずもなく、結局この布告は売春を地下に潜らせ、取締りをかえって困難にするという結果を招いただけに終わった。またリディア・オーティスの調査によると、十三世紀のカルカソンヌやトゥールーズ、アルルでも娼婦を市壁の外に隔離するための規則が作られている。また、十三世紀中葉にはアヴィニョンでもユダヤ人と娼婦は市場で食料品に触れてはならないということが決められており、グラウスが示したように、この時期に娼婦に対する「ゲットー化」(隔離政策)と「スティグマ化」(差別のための徴付け)が進められていったのである。
被差別階層としての性格を強めていった娼婦の境遇に再び変化が生じたのは十四世紀に入ってからのことだったが、それ以前にその変化を準備するいくつかの動きがあったことには注目しておきたい。十二世紀の末に改悛した罪人としてのマグダラのマリアの地位が拡大し、聖職者のたちの中で娼婦の地位が罪人から救われるべき存在へとシフトしていった。美術史家のエミール・マールが言った「男たちの眼差しから遠く離れた孤独のうちに、神の前で焚かれるお香のように我が身を擦り減らす美女は、この上なく感動的な罪の償いのイメージとなった。」という言葉の通り、貧乏と人間の弱さの犠牲者であった娼婦は理想的な信仰の証人となったのである。さらに十三世紀末にはトマス・アクィナスやリチャード・ミドルトンなどの登場によって「社会の下水溝」としての娼婦の役割が強調されていった。娼婦は職業のグループの中に数えられるようになり、手段の是非はどうあれ、得た稼ぎ自体は正当な対価として認められるようになった。こうした過程を経て、一三五○年から一四五○年頃までの間に、都市による売春の制度化が進められていったのである。娼婦を都市の制度の中に組み込んでいく過程の中で、先のルイの布告も、フランスにおいて一三六七年に売春特別区の設置、識別票着用と身体検査の義務化という現実的なものに置き換えられた。市営の娼婦宿が次から次へと作られ、娼婦は小路、酒場や協会の前、果てはローマ教皇の宮殿の前でさえ、堂々と商売をするようになった。その結果、娼婦の存在そのものも公認されるようになり、南フランスのラングドッグの町では、娼婦が自分の手でクッキーを焼き、それを市当局が貧民に配るという習慣も見られた。差別の印や彼女たちを監視していた「娼婦の王」もこの時期には廃止され、ついに娼婦は他の市民と同じ法の下に置かれることとなった。こうして十五世紀を通じて、娼婦でありながら結婚して夫を持ち、家計のためにパートタイマーで働く女性たちがかなり出てくるようになった。彼女たちは一般のお祝いや幼児洗礼、結婚式、葬式などに堂々と参加し、カーニバルの踊りなどにも市民の妻たちと一緒に踊っていたということが報告されている。  

結論
 中世という時代は教会の建前と世俗の本音の危うい均衡の上に成り立っていたがゆえに、娼婦と売春の置かれていた立場もまた、その均衡に大きく左右される不安定なものであった。そして都市社会という場所は教会や都市当局、そして父権社会といった様々な権力の思惑が複雑に絡み合ったものであり、女性という身体性を所有し、また罪に深くかかわる存在であった娼婦は、時代が抱える矛盾を背負い、人々の蔑みの視線を引き受けることになったが、一方でその矛盾こそが中世の都市社会の中に彼女たちの居場所を用意したのである。かつて結婚が教会の秘蹟となったように、トマス・アクィナスが売春を下水に例えるアウグスティヌスの言を引いてその存在を肯定したように、彼女たちの罪へ身を落とす、という行為はキリスト教の犠牲の精神に、彼女たちの奉仕は公益に、結び付けられていくこととなった。そして最終的には社会の構成員の一員として、市民と対等の権利を獲得するまでに至ったのである。この過程はまさにジャック・ル・ゴフが捉えた「意味をずらしていく過程」としての中世像と一致しており、そこから見えてくるのは、もはや抑圧の時代ではなく、禁欲の限界へと行き着いた結果、宗教的体面を保ちつつ性的活動を実践する方法が模索された時代としての「中世」である。中世において娼婦とはまさに、時代を象徴する存在であったと言えるだろう。  

文献目録
Andrew J Gibb,‟Pilgrims and Prostitutes:Costume and Identity Construction in Twelfth-Century Liturgical Drama” in Comparative Drama 42,3,Fall(2008)pp.359-373  

ジョルジュ・デュビー(篠田勝英訳)『中世の結婚 騎士・女性・司祭』新評論、1984年〔Georges duby,Le Chevalier, La Femme Et Le Preste,1981.〕  

エーディト・エンネン(阿部謹也・泉眞樹子訳)『西洋中世の女性たち』人文書院,1992年〔Edith Ennen, Frauen im Mittelalter,〕  

ニコル・ゴンティエ(藤田朋久・藤田なち子訳)『中世都市と暴力』白水社、1999年〔Nicole Gonthier,Cris de haine et rites d’unite:la  violence dans  les villes,ⅩⅢe-ⅩⅥesiecle,Turnhout:Brepols,1992.〕  

フランツ・イルジーグラー,アルノルト・ラゾッタ(藤代幸一訳)『中世のアウトサイダー』
白水社、2011年〔Franz Irsigler,Arnold Lassotta,Bettler und Gaukler Dirnen und Henker,1984.〕  

ジャック・ロシオ(阿部謹也・土浪博訳)『中世娼婦の社会史』筑摩書房,1992年〔Jacques Rossiaud, La Prostituzione Nel Medioevo,1984.〕  

クリフォード・ビショップ(田中雅志訳)『性と聖:性の精神文化史』河出書房新社,2000年〔Clifford Bishop,SEX AND SPIRIT Living Wisdom Series,1996.〕  

ハンス・ペーター・デュル(藤代幸一・津山拓也訳)『性と暴力の文化史』法政大学出版局、1997年〔Hans Peter Duerr, obszönität und Gewalt Der Mythos vom Zivilisationsprozeß,BandⅢ,1993.〕  

アンドルー.・マッコール(鈴木利章・尾崎秀夫訳)『中世の裏社会 その虚像と実像』人文書院、1993年〔Andrew McCall, The Medieval Underworld,1979〕  

ジャック・ル・ゴフ(池田健二・菅沼潤訳)『中世の身体』藤原書店、2006年〔Jacques Le Goff, Nicolas Truong,2003.〕  

ジャック・ル・ゴフ、ミシェル・ソ他、(福井憲彦・松本雅弘訳)『愛とセクシュアリテの歴史』新曜社、1988年。

阿部謹也『西洋中世の男と女:聖性の呪縛の下で』筑摩書房、2007年。  

池上俊一『身体の中世』筑摩書房、2007年。  

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