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それでも私は、社会の底辺などではなくて。

#私らしいはたらき方

専修学校を卒業後、1年の就職浪人期間を経て、専修学校で得た技術を生かせそうな製造業の会社に就職した。それが、23歳のとき。ちゃんとやって行けると思っていた。思っていたけど、出来なかった。

「いつになったら仕事覚えるの?」    「仕事遅いよ!そんなんじゃ日が暮れちゃうよ!」                「ねぇ……どうしても仕事覚えられない?」

どんなに真面目に働いても腕は上がらず、仕事をこなすスピードも上がらなかった。仕事は丁寧に、しかし早く。1年目はそれでもお目こぼしを受けていたが、2年目になって私とは比べものにならないほど優秀な新入社員が入社してから、上司達の私に対する風当たりはいっそう強くなった。

(もう正社員2年目なんだし、先輩になったんだから、もっとしっかりしないとーー)    (もっとしっかりしてくれないとーー)    (そうよ、もっとしっかりして貰わないとーー)

 ーーー「しっかりしてくれないと」ーーー

意味がわからなかった。しっかりするって、どういうこと? もっと具体的にどうすればいいのか教えて下さい。しかし、私は上司達にそれを聞けなかった。そんなことは自分で理解すべきことであり、理解出来ていて当然だろうという無言の忖度が、ひしひしと伝わっていたからだ。

結果、私はリストラされた。勤続2年目にもなって一向に仕事が覚えられないまま。    協調性がなく、空気も読めない。男女年齢問わず他の社員達の誰一人ともまともに会話も出来ず、何より私以外の社員達全員が、 

「あの人と一緒に仕事をしたくない」  

と意見が全員一致したのが、最大の要因だと聞かされた。リストラ宣告され、退職するまでの2ヶ月間は、正に針の筵の毎日だった。   そして自暴自棄になった私は、帰宅途中、職場と最寄り駅の中間にあるコンビニの前に設置された当たり外れのあるガチャポンに、当時大人気番組だった「トリビアの泉」のグッズ【金の脳】と【銀の脳】の、押すと「へぇ~へぇ~」の音声が鳴り、脳の部分が光るキーホルダーを両方手に入れるまで、5千円も投じてしまった。私のことを、

「一緒に仕事したくない人」

ーーそう思っている人達の中で、朝9時から夕方17時まで、一緒に過ごさなければならないのだから。

逃げるように退職してからは、わずかな失業給付金と、使い道がなくて貯まるばかりだった貯金に依存し、1年間、完全に無職だった。昼間から強い酒を飲みもした。度が過ぎて胃が荒れ、吐血までするまでに、私の生活は乱れに乱れた。

しかし、億単位の貯金でもない限り、金はいずれ尽きる。

仕方なしに社会復帰を果たさざるを得なくなったものの、私はどこに行っても「使えない」人間であり人材だった。何回、職ーーといってもアルバイトだがーーを転々としたか、わからない。

しかしそんな浮草稼業にいい加減嫌気が差した私は、パートながら定職に就くことにした。 しかし、私はここでもまた仕事が覚えられない、ミスを連発する、他の同僚から嫌われるという失態を犯し続けた。そんなポンコツを3年に渡って雇用し続けて下さった社長には、感謝以上に、罪悪感しかない。私のせいで職場に多大な迷惑をかけてしまったと。そして私は、その職場を退職した。

やはり、この職場でも影で言われていたのだ。

「あの人と一緒に仕事をしたくない」と。

ポンコツながら辛うじて3年近く続けられた職を失い、私は絶望した。          仕方なしに始めた次の仕事でも、またも仕事を覚えられず職場にも馴染めず、私の精神状態は悪化し、アムカが再開した。アムカ自体は以前の職場で働いていた頃からしていた。    貝印の剃刀の剥き出しの鋭く薄い刃を使って、左の二の腕を中心に、左手首の内側まで広がり、両足に「バカ」「死ね」「使ぇねぇ奴」と刻んだ。自罰の為に。

この職場もまた、居づらくなって数ヶ月で辞める羽目になる。それからしばらくは家業の農業を手伝っていたが、どうにも性に合わず、私は決意した。                  もう健常者の皮を被って、健常者に擬態して生きることを辞め、障害者として、障害者枠で働いて行くことに。

恥ずかしながら、ハローワークの障害者枠の求人端末を見るまで、私はA型作業所の存在を知らなかった。精神科、心療内科の病院や医院にはデイケアやグループホームのパンフレットやフライヤーが無料で置かれているが、就労移行支援施設、A型、B型作業所についてのものは1枚も置かれていないし、患者の「就労」に関することは医師の専門外のため、教えてくれないものである。

(A型作業所か……ここなら私でも問題なく働けそうだ)

私はすぐさま事業所の概要をプリントし、窓口に向かい、面接の予約を取り付けた。そして面接をクリアした私は、その年の年明け早々から、人生初のA型作業所勤務を果たしたのだった。                  ーー新しい職場の面々は、良い意味で想像していた面々と180度違った。

精神疾患を始めとした、障害者だけの職場。きっと利用者達は、いわゆる「陰キャ」的な人達ばかりで、職場も同様、暗く陰鬱としたところだろうと。しかしその予想は、あっさり裏切られた。

初出勤日、作業所内に恐る恐る足を踏み入れると、利用者の方々は皆、男女問わずおしゃれで。明るくて。朝礼前の時間を、楽しいおしゃべりで和気あいあいと過ごしていた。    障害者に対して、実はいちばん偏見を持っていたのは私だった、と思い知らされた。    

作業所の業務内容は、基本的に軽作業。チラシ折り、折ったチラシやDMの封入作業、幼児向け玩具の万引き防止テーピング張り、段ボール箱折り(※仕事を受注して下さった企業側の秘密厳守の仕事も多数ありましたので、その辺は割愛致します)

ーー幸せだった。            誰も私をいじめない。私が職場で朝と帰りの挨拶、そして仕事に関する質問以外一言も発しなくても、誰も私のことを、        「喋らな過ぎて気持ち悪い」        などと言う人は、利用者と指導員合わせて、誰一人いなかった。それどころか年上の女性利用者達からは、

「アタシ、ナガさんみたいな人に憧れるわ~」と、休憩時間の喫煙所でそう言われていたことを聞かされた。発言者はガラッパチなおばちゃん利用者のCさん。ある日、何の前触れもなく発症した統合失調症患者の方である。    「アタシってほら、昔っから喋り過ぎでやかましいって言われてて、ガラも悪いからさ。ナガさんみたいな落ち着きのある、静かな人に憧れるのよ~」               「そうなの? 私もナガさん好きよ」    Cさんの言葉を次いだのは、5人の息子持ちのシンママで、苦労人だけど穏やかなBさんで、鬱病患者。                こんな視点から私の極度の無口さを、    「気持ち悪い」             とは思わず、落ち着きとして評価して認めてくれる人達もいる。そうと知って、私は泣きたくなるほど嬉しかった。

しかし、Cさんはほどなくして作業所を退職してしまう。退職理由は、

「アタシ、これから定年退職するまで毎日段ボールを折る作業しか出来ないのかと思うと、自分が惨めで堪らないんです(号泣)」

ーーとのことだった。

Cさんは発達障害者の私と違い、健常者として生まれ育った方だ。統合失調症を発症する50数年の間、事務方のOLとして長年地元の中堅企業で働き、その後は建築会社に勤め、女性ながらに現場監督まで勤めた。そうした過去のバリキャリの経験とプライドが、作業所勤めの軽作業に打ちのめされてしまったらしい。

私のように長年定職に就けなかった者からすれば、毎日段ボールを折る作業のみで定年を迎えようと『これはれっきとした仕事』としか思えないのだが、やはり精神疾患を発症する前から、普通の仕事をバリバリこなして来た優秀な後天的障害者には、屈辱と感じてしまうのだろうか。しかし、私はCさんを責める気持ちは微塵もない。                  Cさんは間違っても、A型作業所の業務を見下していたわけではない。突然我が身に降りかかった統合失調症という厄介な病に自身の人生や生活を狂わされてしまい、苦しめられているだけだ。私とは異なる、生活の糧としての仕事に関する苦悩を抱えていたのだ。

Cさんが作業所からいなくなっても、私は変わらずA型作業所に通い続けたが、青天の霹靂とは正にあの事だった。           作業所が、閉鎖することになった。

閉鎖の理由は、サービス管理人兼所長が退職するため。A型作業所はサービス管理人という役職に就く方がいなければ運営出来ない。それは法律で決められている。          ちなみにこのサービス管理人は、一部例外もあるが、大抵は作業所の所長も兼ねている。

しかし、利用者達にはすぐ新しい職場(=作業所)が用意された。けれど、私はどうしてもその新しい作業所に移籍する気になれなかった。今まではほぼ毎日作業内容が変わる業務内容だったが、新しい作業所は決まった物しか作らない。

それが理由で、私は別のA型作業所に移籍することにした。

転職先の作業所は今までと違い、設立1年半程度の新しい事業所で、仕事内容ははっきり言って前作業所より遥かにレベルが低かったが、皮肉なことにそれが幸いし、私はここで利用開始から1ヶ月と経たぬ内に、すぐさま「戦力」の利用者になれた。

でもそれは、決して私が優秀だったわけではない。仕事があまりに低レベルだったのだ。仕事だけでなく、利用者には柄の悪い中高年男性が多く、一部の女性利用者はいい大人になってもまだ、気に入らない同性利用者を無視したりいじめたりと、そんな殺伐とした職場に嫌気が差して私は一般就労することを決意して退所したが、やはり「逃げ」のための一般就労は長く続かず、半年未満で退職してしまった。

そんな紆余曲折を経て(?)私はある就労移行支援施設を利用することになった。      就労移行支援施設とは、いわば民間の職業訓練所であり、基本的に給料は出ない。だが、この施設は工賃という形でわずかばかりの収入を得られる施設だった。就労移行支援施設の最大利用期間である2年間を満期修了し、私は今、系列会社の運営するA型作業所の利用者として働いている。

これまで経験が一切ないPCのデータ入力が現在の主な業務内容だが、これからは事務職の利用者の方々のサポート業務も任される。

10年近いA型作業所利用(=勤務)で、軽作業しかして来なかった私にとって、プレッシャーにならないと言えば、正直嘘になる。だけど私は、自分を変えることを恐れたくない。

「私に与えられた仕事がある」

それでいい。本当にそれだけで、いい。























#私らしいはたらき方

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