優しさの正体。思いやりの正体。

こんにちは、もすです。

突然ですが、あなたは、優しさのつもりで他者の為に行動してあげたのに、「お節介だ」「ありがた迷惑だ」と言われてしまった経験がありますか?

自分はその経験があります。その時のなんとも言えない不快感たるや。
しかし、その不快感の根底には、自分の押し付けた優しさに対価を求めてしまっているのではないでしょうか?求めてしまう故、拒絶された時にストレスを感じてしまう。
それと同じで、善行を行っても「偽善者」と呼ばれてしまう。誰かのためを思って行動しても「パターナリズム」「独りよがり」と言われてしまう。

じゃあ「優しさ」の正体って、一体なんなの?今日はそんなお話です。今回も次の3つに分けて解説していこうと思います。


①「優しさ」って?「思いやり」って?
②「優しさ」でしてあげたのに!の正体
③「優しさ」を「思いやり」に昇華させるには



① 「優しさ」って?「思いやり」って?

「優しいけど思いやりがない」なんてフレーズを聞いた事があるだろうか。

一見意味不明のフレーズに聞こえるが、自分は「優しさ」と「思いやり」は似て非なる概念であると考える。

「優しさとは、相手の為を思う気持ちである。」

「思いやりとは、相手の事情や背景の考慮をした上で、相手の為を思う気持ちである。」

これが似て非なる概念である事が分かるだろうか。

わかりやすく説明する為にベン図を用いる。

周囲の赤だけの部分(重なり部分は含まない)は、相手の為を思ってはいるものの、相手の求めるものではない状況である。それすなわち「お節介」「ありがた迷惑」「独りよがり」などが該当する。
青い部分が「思いやり」である。つまり相手の為を思う気持ちが、相手の求めているものである状況である。
「優しさ」がたまたま相手の求める状況であった場合は重なり部分に該当する、というわけである。

つまり、「優しさ」と「思いやり」で
同じなのは、相手の為を思う気持ち。
違うのは、相手の為になるかどうかを正確に考慮できているかどうか。


---「優しい行動」と「思いやりのある行動」


「優しさ」と「思いやり」の違いを更に追求していこうと思う。
「優しい行動」は「極めて主観的なもの」であり、自分が主観的、直感的に感じたエゴに基づいた行動にすぎない。
一方で「思いやりのある行動」は「より客観的なもの」であり、相手の状況や相手にとっての最善を客観的、論理的に吟味する事で生まれた行動である。

故に「優しい行動」はしばしば相手とのすれ違いが生じ、「思いやりのある行動」では絶対に相手とのすれ違いは生じ得ない。もし生じるのであれば、それは「思いやりのある行動」ではなく「優しい行動」に過ぎなかったのである。


②「優しさ」でしてあげたのに!の正体

①で「優しさ」と「思いやり」の正体は暴いた。(これはあくまで自分なりの言葉の定義なので、人によって考え方はたくさんあって良いと思う。)

次に、
「優しさでしてあげたのに!」
「あなたの為を思ってしてあげたのに!」
「善意でしてあげたのに!」という、よく聞くフレーズについて追求していこうと思う。

実際にどんなシチュエーションでこんなフレーズが出て来るか、一度自分で想像してみてから下の文章を読んでみて欲しい。


自分が思い浮かぶシチュエーションは、
「親が子供に自己投影して、親の理想の姿にならせようと努力させる」
「被災者に大量の折り鶴を送りつける」
「医師が患者に対する最適治療を考えて、患者の意見を無視して適用させる」

このくらいだろうか。言うまでもないが、これらは全て「思いやり」ではなく「優しさ」である。

3つ全てに共通するのは「行為を受ける相手の事情を全く考慮していない」ことだ。
こういう行為や思考を「パターナリズム」または「父権主義」と呼ぶ。

これが良くない結果に繋がりうることはここまで読んで頂けた方なら容易に想像がつくだろう。先ほどのベン図で言うと、その優しさが思いやり部分に該当しない限りは「ありがた迷惑」に過ぎないからだ。

子供が本当になりたい姿はなんだ?
被災者が本当に求めている物資はなんだ?
患者が本当に求めている治療はなんだ?
それらを考慮しない限り、その優しさは独りよがりに過ぎないだろう。


---人間は対価を求める生き物

「相手の為を思っての優しい行動」と、「実際に相手の求める物にギャップがあった」場合、行動を起こした側にストレスが生じる。(起こされた側にもストレスが生じるがそれはひとまず置いておく)

だからこそ、「〜してあげたのに!」という怒りの感情が湧いてくる。

そのストレスの正体とは結局のところ、
自分のしてあげた優しい行動に相手からの対価を求めている故に生じる感情である。

人間は、行動に対価を求める生き物である。
自分は、相手に価値を与えた上で相手からの対価を求めること自体は悪いことだとは思わない。むしろ健全だ。対価があるからこそ、対等な関係を保てるのだから。ギブアンドテイクというやつである。

だが、「優しくしてあげたから優しくしてほしい」というのはわがままだ。それはあくまで優しさであり思いやりではないから。
相手にそれ相応の価値を与えることが出来ていないのに、それ相応の対価を求めてしまうのは傲慢すぎる。

①では「優しさ」と「思いやり」の正体について説明した。
②では「優しさ」が生む悲劇を説明した。

①と②から得た結論として、私たち人間がすべき事は「相手に優しくしない事」でも、「相手に優しさの見返りを求めない事」でもない。
『「優しさ」を「思いやり」に昇華させる事』である。



③「優しさ」を「思いやり」に昇華させるには

残念なことだが、まず前提として理解して頂きたいのは、
100%完璧な「思いやり」は私たち人間には不可能だという事。

何故なら私たち人間は、他人の全てを理解できる訳ではないから。「相手の全てを理解できる」なんてのは傲慢だ。

だからこそ「相手を推し量る」ことが非常に大切で、「優しさ」をどれだけ高精度に「思いやりの天井」に近づけられるか。それが鍵なのだ。

では、「相手を推し量る」とはなんなのか。それは
「相手の立場に立って物事を考える」事だ。

簡単な話なようで、「相手の立場に立つ」というのは突き詰めると非常に難しい事だ。

「相手の立場に立つ」
これを実践するには、「相手を理解する」必要がある。
今相手はどのような性格で、どのような状態で、どのような価値観を持っているか。それらの情報を正確に脳で処理する事が、「相手を理解する」という事だ。

そして「相手を理解する」には、「経験や想像力」が必要だ。それらはどう培えば良いのか。
答えは「トライアンドエラーを繰り返す事」である。

人間は、他者と関わる事で他者を知り、自己を知っていく。
そして自己と他者の違いを知っていく。自分が他者にされて嫌だった事。自分が他者にして嫌がられた事。それらを経験する事で、自己も他者も段々理解出来るようになっていく。

その過程で必要な事は、他人からのラインオーバーに敏感になる事であり、他人へのラインオーバーに敏感になる事である。(詳しくは↓の記事に書いてあるので割愛する)

他人へのラインオーバーに敏感になる。優しさに関して言えばそれは、自分は良かれと思ってした行為が、「相手にとってはありがた迷惑な優しさに過ぎなかった」事を恥じる事であり自らを省みる事である。
「〜してあげたのに!」と怒りを覚える時点で3流である。「相手の立場を考えると、ああしてあげたら良かったのかな。」と省みる。そういったトライアンドエラーの繰り返しで、「相手を理解する」事が出来ていく。

まとめると、
「優しさ」を思いやりに「昇華」するには

「相手を推し量る」。相手を推し量るには

「相手の立場に立つ」。相手の立場に立つには

「相手を理解する」。相手を理解するには

「トライアンドエラーを繰り返す」。

人生とは、このサイクルの繰り返しなのである。



まとめ

今回は「優しさ」と「思いやり」の正体について追求した。

この記事を読んだ方が、自分を省みて、他人を思いやる事が出来たらと思う。








善?偽善?
思いやり?お節介?

見返り?

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