自分の人生 24歳まで

今読んでいる本に、「夢を叶えるためには、ライフチャートを書け」と記されていた。
ライフチャートとは、↓のように自分のこれまでの人生を幸福度という尺度で1本の曲線にしたものです。

『メモの魔力』前田裕二 から引用

これを書くことで、自分の人生を幸福度をベースに振り返る事で自分はどういう場面で幸福を感じ、不幸を感じるかを、水平的に自己分析し可視化できるとのこと。

せっかくなので自分も自分の出生を追想し、ライフチャートを作ってみようと思いました。ただのメモがてらの自分語りなので、あまり興味ないかもしれませんがお付き合いください。

幸福度は、別に特に何も感じない場合を0%とし基準とします。



0歳 借金からのスタート 幸福度0%
〇〇県に、◉◉家の次男として生まれる。父親は酒カス、ヤニカス、パチンカスの三重苦で、生まれた時、家庭には200万円のサラ金からの借金があったらしい。

6歳まで 地方の貧困家庭 幸福度15%
特に覚えていない。いないが、家は非常に貧しかったと思う。父方の祖父がやっている会社の2階に住んでいて、家にゴキブリはたくさんいたし、自分の部屋なんて存在せず兄、自分、弟の3人兄弟と母親の4人で同じマットレスに川の字で寝ていた。父親と母親共働きなのに収入を合わせても手取り30万もなかった。借金はなんとか返済していたらしい。
64やゲームボーイが楽しかったから、それほど嫌な記憶もない。
ちなみに、その記憶からか自分は今でもゴキブリが苦手。

6歳〜9歳 天才の目覚め 幸福度-10%
小学校入学後、父方の祖母が、「これからの時代は英語が必要になる」と言い始め、兄と共に英会話教室にぶち込まれる。自分は全く周りのレベルについていけず、途中で断念。その頃から、小学校の教師から知能の遅れを心配され、英会話教室を辞めた後、心配した母親に学研にぶち込まれる。その学研で、「この子は紛れもなく天才。絶対この子は〇〇中学(県内トップの進学校)に入学できる逸材だ」と言われる。
勉強は好きではなかったので幸福度は低い。

10歳 小4 祖父の死去 幸福度20%
祖父が脳卒中で死去。急遽祖父がやっていた会社を父親が引き継ぎ、家がドタバタしていた。父親はこの頃が人生で1番辛かったらしい。思えば、この頃の父親は非常に荒れていたと思う。暴力や破壊行為が多くあったと思う。そしてストレスからかBoerhaave症候群(食道破裂)で夜中に大量の血を吐き入院。母親が気付いていなければ死んでいたと医師に言われたらしい。
家のドタバタはあまり自分に関係がなく、この頃ゲームキューブやDS、Wiiなどのゲームが楽しかったので幸福度はそこそこ高い。

11歳 小5 成金化。入塾 幸福度0%
父が祖父の会社を引き継ぎ、成金となる。会社を改築し、会社の倉庫ができる。その倉庫の2階に部屋が作られ、自分と兄に初めて部屋が与えられる。
小5で進学塾に入る。学研の先生に天才と言われ、母親が期待していたらしい。そこで塾の同級生達を見て、「この世にはこんな賢い人間達がいるのか」と屈辱を味わう。それくらい全く塾の授業についていけなかった。
ゲームの時間が取れなくなったので幸福度は0。

12歳 小6 中学受験合格 幸福度40%
小6の夏、初めて塾で1番になる。それ以降はずっと1番だった。多分1番じゃないのが悔しくて、かなり努力をした。そして自分だけが塾で〇〇中学に合格した。
その時一緒に〇〇中学を受けたHちゃんとは、のちにわかった事だが両思いだった。残念ながらHちゃんは落ちた。Hちゃんとは23歳に付き合う。
勉強ができて楽しかったから幸福度は高かった。

13〜15歳 ハンドボールしかしていない中学時代 幸福度70%
ハンドボール部に入る。県内で最強の中学だった。中3で自分達の代は、1つの大会以外は全部優勝した。県選抜にも優秀選手にも選ばれた。
学力は下の方だった。
ハンドボールが楽しかったし、人生初めての彼女も出来たので幸福度はかなり高い。

16歳 高1 人生初めての挫折 幸福度-60%
中高一貫高校だったので高校でもハンドボール部に入る。
成績は変わらず下位だったが、高1の冬にその年のセンター試験を受験するセンターチャレンジが学校で開催され、300人中270番くらいを記録する。その時の点数は数1A:25/100点、英語60/200点、国語80/200。つまり合計3割くらい。なんとなくセンター試験なんて7割くらい取れるものだと思っていたし、そう聞いていたから人生で初めての挫折感を感じた。
人生初の挫折と、高1のクラスが最悪だったので幸福度はかなり低い。初めての彼女ともこの頃別れた。高校で1番最悪なのは間違いなくこの時期。


17歳 高2 入塾する 幸福度80%
挫折感から、親に頼み込み県内の予備校に入塾する。思えばこれが17歳までの人生で1番の転機だったと思う。
入塾後、授業には全くついていけなかった。その感覚は、11歳の入塾の時と全く同じだった。悔しかったので部活をしながらもかなり努力をした。
また、体力テストで学年で1番になる。
クラス替えでかなり最高のクラスになり、予備校で勉強をすることで勉強もできるようになり予備校で友達もできた。体力テストも学年1位となりかなりのフィーバー状態だった。高校で1番幸福なのは間違いなくこの時期。

18歳 高3 部活引退、予備校の現役生の中で2位か3位くらいになる 幸福度60%(大学受験合格時幸福度180%)
部活が自分達の代になり、最高成績は春の地方大会で3位だった。2位までが全国大会に出場できたから、惜しくもその切符は逃した。夏の県大会は、準決勝で今まで負けた事もないチームに敗れ、引退。
引退後、受験勉強に集中した。10月に模試があり、その結果予備校の現役生の中で2位か3位くらいまで来れた。高校では10番くらい。1位のやつは高校でもずっと1位で、京大医学部に合格した。元々国立の薬学部志望だったが、模試の結果その薬学を志望している受験生ので圧倒的に1位だったので国立医学部志望に変更。
春、地方の国立医学部に最低点+8点で現役合格する。
最後の部活も楽しかったし、大学受験も友達と楽しく勉強ができた。なので幸福度は高い。大学受験の合格は流石に嬉しかった。

19歳〜21歳 大学下級生 ラグビーと勉強の両立 幸福度-40%
大学入学後、ラグビー部に入る。ラグビー部の練習は厳しく、また同時に医学の勉強も厳しかった。かなり疲弊しながらも、なんとか進級。
両立がしんどすぎてかなり幸福度は低い。

22歳 ラグビー部幹部。自殺未遂。幸福度-100%
正確には3年の夏(21歳)から4年の夏までだが、ラグビー部の幹部になる。幹部と言えば聞こえはいいが、実態は部に残る5.6年生と後輩の1.2.3年生の板挟みに合う中間管理職だった。
今までの人生で1番辛い期間がどこかと言われたら絶対にここだし、これからの人生を含めても間違いなくここだと思う。過酷すぎるスケジュールと先輩からのパワハラによりうつ病となり、自殺しようとロープを買ったが、正気に戻り未遂。コロナ禍になり、部活が出来なくなっていなければ命を失っていたかもしれない。
コロナ禍になり、太る。人生で最も太っていた。170cm90kgでBMIは31だった。
言うまでもなく幸福度は人生で1番低い。

23歳 メンヘラHちゃんと付き合う 幸福度120%〜50%
幹部も終わり、ダイエットをし1年で25kg痩せた。
平穏な日々を過ごしていたが、ひょんなことから小学校の塾の同級生であるHちゃんと付き合う事になった。Hちゃんはとんでもないメンヘラで、情緒が不安定になるとすぐ自分を殺そうとしてきた。5回殺そうとされた。結局23の冬に、浮気され破局。
なんだかんだで付き合っている時は幸福度が高かったし浮気された時はキツかった。ズルズルと引きずる。

24歳 尊敬する友人と仲良くなる。国家試験合格 幸福度230%
大学の自分が尊敬する4個上の友人と仲良くなる。彼と仲良くなり、彼から会話のスキルや勉強のやり方、ひいては上手な生き方を見て学んだ。自分の人生の中で最も大きい転機は彼と仲良くなれたことだと思うくらい、影響を受けた。
冬、国家試験はまあまあ余裕で合格した。彼のおかげもある。
今思えば、今までの人生で最も怒涛の1年間だった。平気で10日連続飲み会とかがあったり、後半は月の半分は飲み会があるのが当たり前だった。
哲学も始めた。人間として1番成長できた1年間だと思う。毎日が楽しかった。

これから医師としての生活が始まる。幸福度がどうなっていくか、追記していく予定。



↓後日ライフチャートをグラフ化 今はアイパッドないからできない

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