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百目鬼の悲しみについて(未完)


 

百目鬼と葵

救えなかった大切な人。百目鬼の被虐体験あるいは父親からの去勢



 百目鬼の抱えた傷は、まずは妹が晒された父親からの性的虐待だろう。この経験は大事な妹を傷つけられた怒りと同時に父親への信頼の棄損として百目鬼自身をも傷つけた。妹からのSOSを見逃したという結果は警察官であった百目鬼を殺す結果をも引き起こす

 百目鬼のことを語るのに葵の存在は欠かせない。血の繋がりは無くても、10歳までひとりっこだった百目鬼の元にやってきた5才年下の少女の葵がすぐに大切な存在になったのは自然な流れだったのではないか。

 しかし百目鬼は自身の事情(後述する)から葵を遠ざけることになり、葵のSOSを見逃してしまったのではないか。もしくは葵の盾になれずに葵は傷つけられた。それがもたらした結果について百目鬼はひどく自分を責めることになる。

 自責の念にかられた百目鬼は男性機能を失ってしまう。そして不能であることを放置することで自分を罰し、葵に対する罪を償おうとする。なぜなら葵を傷つけたのは自分の血の繋がった父親であるからだ。いずれ時が経てば百目鬼は加害者である父親に似てくる。兄として葵のそばにいることは、反面、葵にとっては加害者の面影を映す人間がそばに居続けることである。葵は百目鬼と一緒にいることでフラッシュバックの危険性を抱えるのを百目鬼は危惧していたと想像する。

 こういった百目鬼の自罰的な態度は「父親からの去勢」と読み替えることはできないだろうか。父親が犯した行動によって、百目鬼はその罪を償うように自分の身体機能を失わせてしまう。後述する百目鬼の被虐体験とも相まって、百目鬼は自分の男性性を嫌悪または忌避、否定することになる。

 百目鬼の事情とはなにか、それは百目鬼自身も性虐待の被害者であるという可能性だ。百目鬼の初体験について言及されたのは2巻であるが、これが雑誌に掲載されたときの社会状況においては、13歳の少年が年上の女性に導かれて”大人”になるというのはいいこと、おいしいこと、とされて肯定的に受け取られてきた。しかし百目鬼の口から語られた初体験について、矢代は明確に、『犯された』と捉えていることから(それが決して否定的な意味ではなかったとしても)自分の意思に反した行いを強制されたことであったと言える。

 2023年の現時点で、少年や男児に対する性的虐待が「あり得ること」で、現実の事件として明るみにされつつあるいま、矢代のそれだけではなく、百目鬼のそれについても、矢代の言葉どおり被虐体験として百目鬼のその後の恋愛、性愛に対する価値観に影響を及ぼしていると考えられるのではないだろうか。それを補強する情報として、百目鬼が好きな女性のタイプや、実際に高校時代につきあった同級生の少女たちが「脚がきれい」な子だったと語られる場面が在る。女性の身体に魅力を感じる部位に脚を挙げるのは、胸や臀部といったわかりやすい女性的なものではなく、より中性的な部分に惹かれることを意味している。この部分について、最初の印象は百目鬼が男性である矢代に惹かれるフックだと理解していたが、もしかしたら中学1年生で遭遇した性的な被虐体験が、その後百目鬼に女性性を忌避させることになったとも考えられるかもしれない。あれを性的虐待と位置づけるか、そのつもりで描かれたかは判断が難しいが、仮に百目鬼自身も被虐待の経験を経たと考えるなら、矢代が百目鬼を『犯された』と言及することで、百目鬼は矢代によって性虐待の被害者であることが発見される。(が、本人はその自覚はない)

 葵と矢代

ー被害者性の獲得


 葵は百目鬼によって発見されたことで「被害者」となる。

 家庭内で行われた性的虐待は、双方当事者が口をつむぐことで秘密となる。二人だけの閉じた空間を形成し、加害者の罪を隠ぺいすることで被害者の意図に反して共犯関係となってしまう。けれど、第3者の介入によって片方は加害者に、片方は被害者として発見される。被害者性の獲得は当事者にとっては残酷な事実を認めることになるが、一方で自分が被害者だと認めることは回復のスタートラインでもある。葵は奇しくも兄によってその被害者性を獲得できた。

 翻って矢代は義父との二人だけの不均衡な関係性のなかで共犯者の役割を押し付けられたまま被害者性を獲得できずに長い時を過ごすことになる。それは5巻のモノローグの中で、幼い矢代が義父と思われる男から「痛いの、好きだよな」と聞かれて笑顔で肯定しているシーンから読み取ることができる。幼い矢代は保護者の暴力を肯定し受け入れないと生きていけないので、義父の暴力を無化する共犯関係にそれと気づかずに絡め取られてしまう。そして自分は被害者であると気づかないままである。

 そしてその矢代が被害者性を獲得するのは葵との出会いと、百目鬼との「普通の優しいセックス」だった。

 ジュティス・ハーマンの言葉を借りれば、1巻の喫茶店のシーンで、矢代が自らの幼少期の性的虐待の経験を葵に語って聞かせたときの葵の反応(本当にあったこととして信じて恐れおののき涙を流した)によって、矢代の体験が『現実にあったこと』として第三者との間に事実として立ち上がった。それによって初めて矢代は葵によって性虐待の被害者として発見されたと読むことができる。しかし、自らの被害者性を本当に自覚するのは百目鬼とのセックスを経てからである。矢代に惹かれる心を抑えきれなかった百目鬼がしたやり方は、矢代がそれまでに経験したどのやりかたとも違う「優しい」ものだったので、初めてのあれも、好きだと思い込まされたあれも、全て間違った共犯関係を生き抜くための、共犯である自分を肯定するための方便であったことがわかって、初めて自分は被害者であると「発見」した/されたから矢代はあそこで涙を流したのだ。

 

百目と矢代

ー葵を通して気付く痛みと傷

 百目鬼は葵の存在をとおして矢代の本当の痛みを知ることになる。気づいたときは矢代に捨てられたあとなのだが。27話冒頭の回想に出てくる、百目鬼との事後の矢代の涙と「見るな」という台詞は1巻回想の中の葵の「見ないで」のリフレインだと思う。百目鬼が葵の被害現場を見つけたときに放った「見ないで」の言葉を覚えていた百目鬼が、矢代が涙とともにこぼした「見るな」の意味の何らかの共通性に気づいたのが6巻最後の病院の屋上での七原との会話だったのではないか。葵の存在があったからこそ百目鬼は矢代がどんな目に合ってきたのか、その真実に気づくことができたのではないかと考える。

 また、矢代は葵を通して百目鬼の存在を見つめたときに、結果的に百目鬼の傷ついた心を癒すことになった。33話で矢代が百目鬼に対して言った「妹は良かったな、お前がいて」という台詞に百目鬼は息を詰め、感情が高ぶって涙を流している。矢代は「(本心から)思ってるから言った」と続けるように、表面的な慰めではなく、他者から発見されたことで、手遅れではあったにせよ、葵には救済の道が開けたことを知っているのだ。そしてその矢代の意図をこの時点での百目鬼は理解してはいなかったとしても、父親によって葵が被害をうけたこと、葵のSOSを見落としていたことに責任を感じていた百目鬼にとってこの言葉は根源的な部分に触れて慰めになる言葉になったのではないか。

 そして葵も矢代も百目鬼に願ったのは「自分のことを大切にしてほしい」だった(矢代は足を撃ち抜いてるけどな)

 

百目鬼と仁姫

 

もう一度出会うために自分自身を生きる百目鬼の4年


 葵のために葵とのつながりを一方的に絶とうとした百目鬼、矢代のために自分の命を使おうとした百目鬼。どちらも自分自身をないがしろにするような百目鬼の態度が関係を悪化させてしまう(葵の場合はそうせざるを得なかった事情はあるにせよ)

 けれど、葵のときに、矢代の仲介もあり、一定の関係修復がされたのは、少なくとも百目鬼が矢代との出会いをきっかけに自分自身を生きなおそうとし始めたからだと考えると、矢代との関係を再構築するために、もう一度自分自身を生きていく必要がある。百目鬼は生きるために再度矢代を求めて三角を訪ねていったと考える。

 結果は、三角からは拒絶されたけれども、百目鬼に同調した天羽によって桜一家とつながる。これによって百目鬼はなんとか矢代とのよすがをつなぐのだが、百目鬼にとって(ヤクザの娘とはいえ)健やかに育っている仁姫の存在は希望をもたらす存在になったのではないか。百目鬼の桜一家でのエピソードとして仁姫の誘拐と奪還があるが、百目鬼個人の物語においてはこの経験は葵との間で叶えられなかった、悲劇の未然防止の経験となり、生き直しの一歩となった。

 

 

恋愛感情の封印と欲望

人を好きになることは痛みを伴う

 しかし、矢代との関係再構築のために慎重にならなければいけないのが自分の恋愛感情で、それはいったん封印し、矢代に必要とされる人間になることを目指したのではないかと私は考える。

 矢代は他者に体の関係は許すが、自分に向けられる好意の感情には徹底して排他的だ。その理由について百目鬼は知るすべがないが、けれど矢代が自分の恋愛観について語った言葉は、33話「人を好きになるのってお前はどんな感じだ(中略)痛いんだな、俺にとってはこんな感じだ」とあるように、矢代にとって人を好きになることは痛みを伴うことだと百目鬼は知る。

 矢代にとって人を好きになることが痛みを伴うことだとしたら、百目鬼は矢代に無遠慮に自分を好きになることを求められるだろうか。この会話の中で矢代に「どんな風に好きになるんだ」と尋ねられた百目鬼が語気を荒げて「あなたは他とは違います(中略)違うなら聞かないでほしい」と言い放つ。百目鬼にとって矢代がこれまでになく特別な存在であることがわかる一言だ。特別であるがゆえに矢代を神聖視し、神格化したために矢代に捨てられたとわたしはおもっているのだが、だとしたら、再開したあとの百目鬼は矢代に対して慎重に自分の(恋愛)感情を秘匿するのは当然の流れではある。なんなら矢代を神格化するのをやめ、ことさらに対等な人間として対応しようとする。

 けれど、突然の再開と井波との変わらない関係の前で自らの欲望との葛藤が生じる。

 

変わらない矢代に対する苛立ち

かわっていることの期待と恐れ

 矢代が部下想いであることは綱川が見抜いたとおりで、百目鬼自身もそれはわかっている。改めて矢代のやさしさの一面に触れて、その変わらない部分に安堵してもいる。一方でセックスに慣らされた敏感な身体や井波との関係などの変わらない部分への苛立ちもある。百目鬼は矢代に変わってほしかったのだろうか?それとも変わらない矢代でいてほしかったのだろうか。百目鬼は再会してからこっち、ことさらに矢代の「変わらなさ」を強調している。1度だけ、矢代の変化を確認する箇所があり、48話の「井波がいるんじゃないですか」でこの4年での二人の関係の変化の本質を確認しようとしているが、矢代にはぐらかされている。この場面で百目鬼の瞳に光が多く描かれてそれが微かに憂いの表情に映る(この表情は56話でも似たような表現に描かれてる場面がある。それも4年前の矢代との変化を百目鬼が指摘する場面だが)百目鬼は矢代が4年前と変わった言動を感じ取ると微かに感情を揺るがすのだ。(ひとまずここまで)



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