アスリートは偽善的に振る舞うべきなのか?

お正月の箱根駅伝を観ていましたが、
久しぶりにこの人の名前を耳にしました。

徳本一善。
駿河台大学駅伝部の監督ですが、
徳本さんは学生時代、箱根駅伝の名ランナー
として大活躍しました。

しかし、当時の徳本選手を有名にしたのは
大活躍した箱根駅伝での走りだけでは
ありません。

その奇抜な髪型や、歯に衣を着せぬ
独特の言動など、その偽悪的な振る舞い
が賛否両論を買ったものでした。

しかし徳本選手はそういう世の中の声
をあえてエネルギーに変えて結果に
向けて陸上に打ち込んでいたのは
周知の事実であり、あえて自分に発破を
掛ける意味でもそういう行動を取る
ことによって、自分を追い込んでいた
とも言えます。

その徳本選手が大学陸上部の監督になり、
生徒を指導するときには、自らの体験と
して、ヤンチャな選手達を諭すのにその
ときのことを話すのだそうです。

「世の中の人たちは、アスリートに
対して、礼儀正しく爽やかなスポーツ
マン像を描いている。その方が確実に
人から応援してもらえるから、
そうしようぜ。」

選手達を諭すのに、理想からの
「あるべき論」を大上段から振りかざす
のではなく、自らの経験をもって学生達
にそう伝えると、学生達は納得して
ちゃんと日常生活から行動を変えていく
のだそうです。

同じようなことが優勝した青山学院大の
原監督にも言えます。

原監督は高校時代は広島県の世羅高校と
言う高校駅伝の超名門校の選手でした。
しかし高校時代に燃え尽きてしまい、
大学も高校の先生から勧められるままに
中京大学へ進学しますがそこで陸上への
情熱を失ってしまい、その後実業団でも
練習せずに遊んでばかり。
結局、その実業団チームを追い出される
ように辞めてしまった経験があります。

だから選手達に寄り添った指導ができる
のだろうと思います。

指導は一筋縄ではいかないんです。
どれだけ良い指導法があって、
それを学んだとしてもその通りには
ならない。

青学の例も徳本監督の例も、原監督
だから、徳本監督だからできたことも
沢山あるはずで、それは他校でも同じで
あり、駒大でも東洋大でも、中大でも
それ以外の大学でも、大学の数だけ
ドラマがあり、指導者の数だけドラマが
あります。
大事なのはそれできちんと前進している
かどうかだと思います。

ここからが本題なのですが、
「アスリートは偽善であるべきか?」

多くの場合、世間がアスリートに望む姿
は先の徳本監督の例のとおり、
「礼儀正しく、爽やかで、人間性に優れ、
そしてファンに優しい。」
こういう姿だと思います。

しかし同時にアスリートは孤独で
傷付きやすく、繊細な一面もあります。
野球選手の奥さんはセレブで良い生活
をしているというイメージがありますが
実際、毎日毎日来年の契約があるか
どうかのプレッシャーと戦いながら、
試合に練習に向かう野球選手を支えて
行くのは本当に大変で、三振して精神的
に荒れて帰ってきた選手をまた明日の
試合にリセットして送り出してあげる
というのはそんなに簡単なことでは
ありません。
時には家族に相当当たり散らすことも
あるでしょう。

アスリートは世間が彼らに望む姿とは
裏腹に、様々なプレッシャーと戦って
いるんです。

そんな彼らに大上段から「こうあるべき」
論で迫ったところで、簡単には受け入れて
はもらえないでしょう。

その昔、サッカーJリーグのヴェルディ
川崎(現在は東京ヴェルディ)に、
石塚啓次選手という有望な選手がいました。
彼はデビュー戦で決勝ゴールを決めて
鮮烈なデビューを飾るのですが、
ヒーローインタビューでの言動が批判を
集めてしまいます。

「どうも。」
「よく分かんない。」
「僕を出せば優勝できますので
よろしくお願いします。」

ぶっきらぼうに話す石塚選手の姿勢が
テレビに写るや、沢山のファンからの
クレームが相次いだそうです。

しかし石塚選手は非常に面倒見が良く、
後輩達から慕われた選手であり、
高校時代から注目されたことで、
マスコミからかなり追っ掛け回され
時には批判的なことも掛かれて来たこと
もあって、色々と反発があったのでしょう。
だからあえて偽悪的に振る舞うことで、
主張したい何かがあったのでしょう。

私たちはそこをきちんと受け入れて
見守ってあげないといけないと思います。

私は長年剣道をやって来ましたが、
剣道は「人間形成の道」と言われて
います。

本来の「人間形成」の意味は、
剣道とは一筋縄ではいかないほど
難しいものであり、理想の姿を
追求するには時には自らの欲望や
甘えと戦わないといけないもの。
だからこその人間形成の道なので
すが、最近はちょっと違うなと
感じることがあります。

「偽善的に振る舞う」ことが、
「人間形成の道」と勘違いされて
いることです。

こういう考え方が広まると、
技量がまだまだなうちは精神的に
未熟でも良いという考え方になり
がちであり、高段者の先生の人間性
を批判する割には、自らの人間性に
ついては何も疑問を持たない人や、
偽善的に振る舞ってさえいれば、
自分の技量向上については何も
取り組まなくても良いみたいな人が
出てしまいがちです。

でも、本来はそうではないんです。

もちろん、「偽善も極めれば真善」
という考え方もあります。
しかし真善を極めた篤志家の方の生き方
を見ていると、とても私たちにはできない
ようなことをして、そうなっています。
本当に自分の全財産や生命を投げ売って
でも善行に取り組んで来られたから、
真善を極められたわけで、我々とは
前提条件が違うんです。

と、いうことでアスリートは偽善的に
振る舞うべきなのか?という問いですが、
「その方が人から応援してもらえやすい。」
という答えにしかならないのですが、
逆に言えば私たちは他人に対して厳しく
偽善を求める割には自らには甘いという
現実と向き合わなければいけないのです。

新年早々耳の痛い話なのですが、
私も本当に気を付けたいと思います。


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