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年間ライブ250本超え!過酷すぎたアイドルと呼ばれた時代の話


小さいからただ漠然と歌手になりたいという夢だけを持っていた。どこで使うかもわからない用途不明の歌詞と曲を小学生の頃からずっと書きだめてた。"いつか私は歌手になるに決まってる"という謎の自信が確かに存在していた。そして私の音楽人生は突然はじまった。

ライブハウスにお客さんとしてイベントを見に行っていた時に前事務所(ライブハウス運営するゆる〜い事務所)にスカウトされた。願っても無いチャンス!しっかり両親にも説得し3年契約を交わしたのだった。(後に痛い目を見る)



事務所に入って数日後

いきなり社長からライブの詳細が送られてきたのである。確かに予定を空けて置いてねとは言われたが「明後日はお披露目ライブだよー!頑張ってね!」とさらに課題曲が送られてきたのである。しかも課題曲がボカロのクソながーい初めて聴いた曲。(ちなみにハロ/ハワユという曲だったのがきっかけで2回目の幕開け"ハワユ"というタイトルにしたのである。)



しかも人生初ライブは二本立て!金山club SARUと名古屋クアトロ。

頭の中はハテナのままとりあえず曲を覚えることが必死になることにした。必死に頭に叩き込みライブ当日を迎えた。会場に着くと全く知らない女の子が待ち構えていた。なんと彼女は私の隣で踊ってくれることが判明した!もう何1つ意味はわかってないけど従うことにした。(しかもめちゃくちゃバラード)。1回目のライブは本当に何にも覚えてない。頭が真っ白。そして一本目のライブ終わり早々と車で次の現場へ連れられ20分後くらいに本番(リハーサルなし)。ここでわたしは衝撃を受けることになる。


なんと名古屋クアトロはむちゃくちゃ大きくて果てしなく広かったのである。

私は無知だったので名古屋クアトロを知らなかった。今思えば初ライブした日にクアトロ立ってるとか正気の沙汰ではない。しかもこんなに広いのにお客さんは10人も居ないくらいだった。 ステージは意味わからん程に広く、隣で知らない女の子が踊ってるし(むちゃくちゃバラード)、譜面台に置いた紙はシャーペンで書いたから照明で全く見えないし、いろんなことが意味がわからんかった。とりあえず歌うしか選択がない非常にシュールな幕開けだった。いざ華やかな世界へ!という淡い期待はあっという間に消えていき、ここから過酷すぎるライブ三昧の日々がはじまった。そしてここで異変に気がついた。



なんと当時の事務所の社長は私を地下アイドルとして事務所に迎え入れていたことが発覚!

当時アイドルというものに偏見があり、どうして歌手になりたいのにアイドルのイベントばかりしか出してもらえないのかという葛藤と反発がおよそ一年間以上続いた。当時のスケジュールは本当に過酷で本当に毎日ライブばかりの日々だった。一日ライブを三回し(3公演)の日もあった。なんと数えれば年間250本以上のライブに出演していたのである。出演時間は10分〜30分のブッキングアイドルイベント。

アイドルのブッキングイベントは基本的にノルマがないところが多い。ブッキングイベントだとリハーサルがあるのはごく稀で、出番五分前に会場入りするアイドルもいた。そして転換がないのでその分出演者がとても多い。出演か終わればワイヤレスマイクをバトンリレーのように回していく式である。私はとてもびっくりしたことがある。


ステージからはけたアイドルに渡されたマイクは電源オフ

アイドルをよくわかってなかった私は当然みんな生歌なのが当たり前だと思っていたのでひどく衝撃を受けた。この頃からアイドルに対しての偏見はどんどん加速していった。

当時のライブスタイルはカバーメインで音源を流して歌うシンガースタイルだった。しかし決してアイドルと一緒にされたくないと思っていた私は盛り上がりを丸無視した曲ばかりを選曲し、決して踊ることなく、お客さんからのコールやケチャを断固拒否した。このスタイルを貫き続けた。アイドルになめられたくないから楽屋では誰とも口をきかなかったし、馬鹿にされたくないからアイラインめっちゃ濃く引いて基本睨みつけて威嚇してた。途中からアイドルイベントに弾き語りで出演するようになった

そんな毎日を繰り返してたら当然誰とも馴染めず、お客さんも全くつかなかった。いつも何かのせいにしてた。場所や環境が悪い、わからんやつが悪い。と言い訳がばかりが出てくるでてくる。そんな毎日をただ繰り返していくのがとてつもなく長くてしんどかった。どこに向かうのか目標がわからなくてただやり過ごすことを覚えた。


アイドルは平行物販が多く前のアイドルが歌い終わって私がステージに立つとサーってお客さんがいなくなってしまうのも日常茶飯事。私が歌ってても誰もいないライブハウス。扉の向こうから物販の楽しい声が聞こえてきた。本当に悔かった。今でも平行物販をあまりしないのはこんな思いを他の人にさせたくないからと言うのもある。

ただ悔しくってがむしゃらに歌うことしかできなくてどんどん消費する声。喉がパンパンに腫れたって氷で冷やしながらステージに立ち続けた。何と戦ってるかさえもわからんのにとにかく負けたくなかった。。そんな毎日を繰り返していたら、ライブ終盤で急に呼吸がしづらくなった。なんとか歌い終わってなだれ込むように舞台袖でぶっ倒れた。生まれて初めて過呼吸というのを経験したこともあった。とにかく過酷という言葉がふさわしいアイドルと呼ばれた時代もあった。

 

みんな敵!中指立てまくりの私が愛に生きたいと思ったきっかけ

目の前にお客さんが居ない事なんてへでもなかった。場数だけはとても踏んできたのでめちゃくちゃ心だけは強くなっていった。でも一回だけ悔しくて人前で泣いたことがある。

その日もいつもと変わらぬ早朝ライブでオープン8時という鬼畜イベントに出演した。私の出番はトップバッター。ステージに出て行くと目の前には自分目当てで来てくれたお客さんが一人だけ立っていた。私が歌ってるのを一生懸命聞いてくれて、一人で盛り上げようとしてくれた。この時私はめちゃくちゃ悔しくなった。どうしてこの人にこんな思いをさせてしまうまで気づかなかったんだろう。何をやっていたんだろう。どうして見に来てくれたこの人に頑張らせてしまってるんだろう。誰もいない0人のライブハウスより、誰も聞いてくれないライブよりも何よりも一番心がしんどかった。


自分を追い込んでいたのは自分だった

わたしは猛烈に反省した。この日から自分を見つめ直す為にライブノートを作るようにした。他のアイドルよりもお客さんのことを覚えよう。反省を毎日して誰よりも努力しよう。とノートに感想や反省、お客さんの名前、会話や他の出演者さんの感想など日記を書くことにした。このノートはいまでもずっと続いている。プラス当時はお客さんに感想を書いてもらうノートを置いていた。ここからお客さんへの気持ちが変わった。そうした、周りの景色の見え方が少しずつ変わった。


誰もいないなら出演者やライブハウスの人を好きさせてしまおう。誰も聞いてくれないなら聞かせるくらいの歌を歌おう。スマホを見てるあの人の顔を上げさせようと考え方が変わった。そうしたらちょっとずつ人がきてくれるようになった。ちょっとずつステージを見てくれるようになった。2年前に久しぶりにアイドルイベントに弾き語りで出演させてもらった時本当にたくさんの方が聴いてくれた。おかえりといってくれる人もいた。今では当時のイベント関係者さんに音楽のお仕事を頂いたりもしている。

きっかけをくれたお客さんは今年のめぱフェスにも顔を出してくれた。絶対にクアトロでいつかワンマンすると約束したあの人も、マジで大げんかしたあの人も、毎日ライブハウスにきてくれたあの人も、いまだに顔を出してくれるあの人たちも、全ての人たちに私は変えてもらったと思ってる。そして今がある。自分のことをアイドルだとは思ったことはやっぱりないんだけどそれでも私は通るべき道を通ってこれた思っている。


これがアイドルと呼ばれた時代の話











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