見出し画像

問わず語り~えにしもごうも

人の縁というもの、”えん”、”えにし”のどちらにしても、まぁ、不思議なもので、繋がったり、紡いだりで複雑に絡み合って、その様を人脈とかネットワークなんて言ったりするんですけどね

ああ、嫌い
”俺の人脈”とか”僕のネットワーク”とか、そういうのはどうも苦手

やはり、縁や円だとしっくりくる

脈っていうのはまず太い一本から枝が別れてはいるものの道が通っていて、太い脈から細い脈に繋がっている様は、なんというかベクトルのかかった集合体であり、ヒエラルキ―的なものも含んでいる

悪い言い方をすれば寄生する方と吸い取る方のイメージが強くて相互の脈の中での相互の関係性が僕のさらに嫌いなwin-winの関係なんですよね

なぜwin-winの関係が嫌いか
結果的にwin-winの関係になることは好む、または望むけれども、最初からwin-winを持ち込まれるとそれはある意味脅迫みたいなものだから

”こんな儲け話断る方がどうかしてるぜ?”

そりゃ君も儲かるし、僕も儲かるのだろうけれども、でも僕が必ずしも君が儲かることを僕が望んでいないという可能性に関して、あまり無頓着でいてほしくないものだ
なぜなら、その儲け話を実行するなら、別の奴と組んだ方が儲けの取り分がよりフェアだからさ

なんてことが、win-winの関係にはつきものなのです

さて、僕だって人脈をたどれば、名のある偉そうな人にたどり着くかもしれませんが、脈を伝わる過程でいろんな面倒が発生する可能性についても付け加えさえてもらえば、もうなんで僕がその言葉を好かないのか、好んで使わないのか、まぁ、嫌いなのかはご理解いただけるかと思います

縁の話に戻りましょう

”人との縁は大事にしなさい”と言う言葉を、最近はあまり聞かなくなったように思うのは僕だけでしょうか?

SNSというサービスは人と人とを結びつけるツールとしては人類史上、稀にみる革新的なことであると同時に、可能性の大きさ、窓口の広さに対して人の認識が追い付いていない状況が歴然として存在していると思います

メッセージを簡単にカテゴリー内の不特定多数に送ることが可能であることの無限に近い可能性について認識とオペレーションと処理が着いていっておらず、結果的に人脈的な使い方に終始してしまう

その昔、縁のあった人には暑中お見舞いや年賀状を欠かさずやりとりをしてきた人同士と言うのは、何かの集まりで出会ったと人、やたらとLINEの交換をするよりも、ずっと重みのある関係性だと僕は思うのです

”手間をかけている間に何を思うのか”ということが、記憶の再生と思い入れの刷り込みになるという分析はさておき、どんなツールでも、しっかりと使えば同じような役割をより効果的に行えるわけで、LINEを使うことと手紙を書いて出すことでの差と言うのは、結局使う側の心構え次第であり、こちらが、大事に使えば、メッセージを貰った人も同じように返してくれるものだと僕は信じています

もちろん、何事も必ずとか100%ということはありません

しかしながら、親に”早く出さないと元旦に届かないわよ!”と怒られながら年賀状を書いた経験のある僕のような世代と、物心ついたときからスマホがあって、友達とグループラインでやり取りをしていた世代とでは、感じ方も考え方も違うのは当然です

そもそも昔は電報などというものがあって、誰かに何かを伝えるのに、第三者にその内容を口頭か、メモで渡さなければならなかったわけです

そりゃ、読まれたくない事、乱れた言葉は使えませんし、より簡素な内容になるのは至極当然

”チチキトクスグカエレ”

などというのは、今では記号として面白おかしく使われることもあるのでしょうが、電報と言えばやはり

”サクラサク”や”サクラチル”

といった受験の合否を知らせる暗号のような気の利いた電報があります
これは今でいうところのスタンプに近い間も知れませんね

つまり今も昔も、意味や状況や心情を短い記号に治して送るというのは人間の特技のようなものというか、動物的素養なのだと僕は思うのですけれども

ただスマホの大きな違いはマルチタスクで通信ができることでしょうけどその代表的なグループラインはおばちゃんの井戸端会議に置き換えることも、サラリーマンの喫煙所とも言えますが、まぁサロンですよね

パソコン通信にしろ、無線にしろ、コミュニケーションツールというのは新しい形の縁を作る上で一時代、一時代の役割を果たしながら現在に至るということを踏まえて、人の認識力がどこまで拡大するのか、それによって”縁”がどうのうに変わり”円”がどのように形成されるのか

ちなみに僕の娘は小学生の頃にオンラインゲームで知り合ったお姉さんが薬剤師だったらしく、それに憧れたのかどうかは知りませんが彼女もそれを目指して勉強をし、めでたくその進路への第一歩を踏み出しました

僕と妻(=僕はいつもカミさんというがここでは妻)が出会ったのは、自分が勤めていた会社が多角経営をする中で漫画喫茶を出店し、その店の最初のアルバイトが、”カミさん”こと妻なわけで

その妻は本来看護師を目指して専門学校に通っていたのですが、それは母親が看護師であったこと、父親を病気で亡くしたことが志望理由だったと聞いています

しかし、彼女は向かなかった・・・何事も肩に力が入ってしまうので、注射針がまともに刺せなかったとか

僕は元来、一目ぼれを基準として恋愛をするので、まだ10代だった彼女はことも扱い、まるで恋愛の対象にはなっていないし、管理部長としては社内恋愛は好ましくないという方針でおりましたので、まぁ、出会ったこと自体が可能性として低かったのに、状況としてはなおのこと結婚をするなど夢にも思わなかったわけです

その奇跡がどうやって起きたかはおいておいて、その二人から生まれた子供が、学校で優秀な成績を収めることも想定外でしたし、人見知りが過ぎて、学校で友達と話しているところを見たことがないという先生からの意外な報告も、家の中ではまさかのアクティブにSNSで知り合った人に会いに行くくらいですから、現在の結果から考えるとそれを”縁”と言わずして、なんとしたものかと思うのです

これでもしも、僕がSNSにまるで理解がなければ、彼女が出かけることに関して絶対に許さなかったと思いますが、ほぼ同じ時期に僕はSNSで知り合った人と積極的に会いに行くようになり、子供たちもその席に連れ出したりもしていたので、それすらも、現在の結果に繋がる縁であったと言わざるを得ません

と言うわけで、縁についてはまだまだ語り足りないところがございますので、今回はこの辺りで締めさせていただき、続きは次回と言うことで

では、また次回
虚実交えて問わず語り

※えにしもごうも というタイトルはこちらの曲からパクリましたw



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?