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アンチテーゼ~好きって言葉は嫌い

僕の中には好きが多い

最初に好きになったのは母親だったのか、母方の実家に住み着いていた猫なのか、あるいは母が大事にしていたオルゴールを分解することなのか、函館を走っていたSLだったのか・・・

好きという言葉を知る前に、僕の中にはそんな些細な好きがいっぱいあった

東京に引っ越し、小学校に上がってすぐにクラスの女の子が可愛くて、極端な話、みんな好きだった

初めて人に”好き”って言われたのは5年生のバレンタインデイだった

どうしていいかわからなくて、冷蔵庫にしまって大事に食べたけど、正直そのときは彼女のことは好きではなかったので、初めて好きという感情を外側に見て、本当に戸惑って、それでも好きって言われるのはうれしいなと思った

逆に僕が好きだった子は、意識的に僕を避けていたし、それでも好きは止まらなかったのだけれども、小学校を卒業して、中学2年だったか、その時に会ったときに彼女に謝られた

”私が意識しすぎて、ずっと避けてしまって、私が悪かったの、ごめんね”

僕にはまるでどうしていいかわからずに、大丈夫とか気にしないでとか、何か適当な言葉でやり過ごしたけど、そのあとちょっと文通をした

チョコをくれた彼女ともその頃に一度会ったけど、なんだかもう好きではなくなっていたらしく、それでも年賀状のやり取りは今でも続いている

僕の”好き”は中学生になるころには当たり前に恋愛に変化して、ただ好きと思うだけではなくて、その気持ちを相手に伝えて、相手にも好きになってもらって、その気持ちを共有することにとても喜びを感じるようになっていた

なんて書くと、奇妙な感じだけど、つまりは小学生の好きはただ思って、それをどうしていいのかわからなかったものが、手をつないだり口づけを交わすってことが、好きの表現方法だってわかるようになったってことなのだけれども、どんなに好き同士でも、ままならないことがあったり、起きたりして、別れなきゃならないことがあることも同時に知った

僕は今まで好きを嫌いになったことはない

何かを好きになったり、誰かを好きになったら、熱は冷めても嫌いになんかならない

僕は気が多いと自覚しているし、悪ぶれずに”好きになってしまったものは仕方がない”とここでは言える

でも一方で好きな気持ちというのは、いったい何なのだろうという疑問もずっと持ち続けていた

いわゆる”添い遂げる”とか”一途”という感覚が僕には欠如しているんじゃないかと自己否定をしていた時期もある

そんなときに限って、僕に好意を抱いてくれる人が現れるのだけれども、僕は本当にひどいことをしたと悔いている
紆余曲折、かなり屈折した恋愛観を持ってしまった僕は19の時に僕よりはるかにややこしい恋愛観を持ち、ややこしい人間関係にある年上の女性と出会って、すっかり恋に落ちたのだけれども、わずか数か月の間にいろいろなことが起きて、やらかして、拙さのあまりにすっかり砕けてしまった

ああ、もういいや

好きになることがすっかり怖くなってしまった僕は、その方向の心をすっかり閉ざしたまま、10年近く誰かに好意を持つことはあっても、好きになるということはできないでいた・・・しなかったが正しいのか、出会うことを避けていたのが正しいのか、そのどれも当てはまるのかもしれないのだけれども

さて、それでもどうしようもなく”好き”という感情が芽生えるような出会いがあって、秘めていた思いをーーつまりは告白をして見事に振られたときに、今のカミさんと出会うわけだけれども、正確にはその前から知っている仲であり、恋愛の対象にはまるで当てはまっていなかったものが、何かのきっかけに一緒に住むことになった

おいおい、そんな突拍子もない展開ってあるのかよって突っ込みに対しては、低頭しつつも、事実そうなのだから仕方がないと言い訳すらもできないくらいに、そういうことはあるものなのですよ

僕はカミさんに一度も好きと言ってないし、記憶が正しければ言われたこともないはずだ
ただ、一度だけ、互いの恋愛観についてベッドの中で話したことがある

”好き”という言葉は信用できないんだ
その言葉には人それぞれ違いがありすぎてーー例えばじゃあ、どのくらい好きかって話になったとき、好きの大きさや長さや深さや広さや、そういうことは絶対に理解しあえないか、或いは毎分変わるものだと思う
”ずっと一緒にいたい”と思うことは、こうして四六時中くっついたり、離れていてもお互いに連絡とったり、気持ちがつながるって感覚にそれほど人の差はないと思う

だから好きとは言わないけれど、ずっと一緒にいたい

後にも先にもその時だけだったけれども、お互いにそこが合致したと思ったので、すぐにカミさんを実家に連れて行って顔合わせをした

そういう話を端折って、仲間には”恋愛の延長線に必ずしも結婚はない”だとか、”好きで結婚したわけじゃない”とか、”物心ついた時から子供は欲しかった”なんてことを言うものだから、口の悪い相方には”子供を産ませるために結婚した”なんてことを言われてしまうのだけれども(その一点だけでも友達は選ぶべきだと言いたい)

だから好きという言葉は嫌いなんですよ

でも、同時に憧憬のようなものがあって、19のとき、もし好きという言葉を言っていたら、或いは言えたら、人生は大きく変わっていたかもしれないということを最近よく考えるのですよ

”好き”という言葉が”魔法の言葉”として、誰かの心を動かす力があるとするならば、それはどういうことなのかと考える

でも、きっと僕の魔法はとても弱いので、せいぜいドラクエでいうところのメラかFFでいうところのファイアくらいでしかない※1

なぜなら僕は”魔法を信じていない”

僕は科学を用いてことをなすことを好むし、その科学ですら信じてはいないし、常に新しい発見と仮説と観測と実証によって変わっていくものだと理解しているから、万能であるとは思っていない

好きという感情も科学を用いて分析するし、そこには化学反応も起きるので一番近いのは料理ではないかと思うのだけれども、その話はまたの機会にするとして

欲と知性と心を人間は持っている
誰かを好きになる(異性に限らず)って現象にはこの三つの能力が掛け合わせて発生する
すなわち
子孫を残したいという欲、会話で意思疎通をし、価値観を共有し、社会的関係を構築しようという知性、そして慈しみや親しみや安らぎを求める心

これらを集約したのが宗教的結婚観や民族的倫理観だったりするのだけれども、そこからはみ出してしまう”好き”という感情を”不貞”とか”不倫”などと表現し、人は、社会はそれを忌み嫌う
だけれども前述のことから考えると、それは”良い悪い”の話ではなく、三つの能力のあり方の個人差から生まれる集合体的規範からの逸脱であって、社会の変化によって、規範そのものが揺らいでいるだけなのだと、僕は思うのだけれども

いずれにしても”好き”という不確定(環境による変化)な、或いは不誠実(置かれた状況により優先順位が変わる)とも言える感情を科学すればするほど、謎は深まる一方なのである

”いつかはだれでも恋の謎が解けてひとりきりじゃいられなくなる”※2

”好き”よりも”一緒にいたい”を僕が好むのは、つまりは”わからないもの”が怖いからなのかもしれない

あなたは自分の”好き”という感情を、どこまで信じられますか?

そしてあなたを好きと言ってくれる言葉に魔法はかかっていますか?

もしどちらも信じることができるのであれば、それはとても素敵なことだと思います

幸せになれるかどうかは、また別の話として・・・


※1
メラはドラゴンクエストで一番最初に覚える炎の攻撃魔法でスライムを一撃で倒せるレベルだけど、消費MPと効果に関して言えば非効率であり、あまり使う機会はない
ファイアはファイナルファンタジーの魔法であるが、メラにくらべると多少キャラクターの成長とともに効果も上がるので悪くはないが、いずれにしても初歩の魔法なので使う機会は限られる
※2
佐野元春の1982年にリリースされた3枚目のアルバム「SOMEDAY」に収録された代表曲「SOMEDAY」の中の一節

佐野のライブの定番曲でもあり、佐野の思うところから一時期封印したこともあったが後に復活。「THE SUN」ツアーの最終公演では、アンコールでこの曲を披露する前に「10代には10代、20代には20代、…50代には50代の『いつかきっと』があるんじゃないかって、最近思い始めている」と目に涙を浮かべながら語り、発表から時間を経て広く愛された曲が、自身と聴き手にとって新たな意味を持つに至った事実を噛みしめた。佐野の父親が初めて『いい曲だな』と褒めた曲でもある(wikiより)


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