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記憶を辿る

なんだか、久しぶりに書くので少し緊張しています。書きたいことはたくさんあったんだけれども、ちゃんとした言葉にできずに数ヶ月が経ちました。そろそろちゃんと言葉にできるだろうと思って書き綴ります。冬のせいにして、今日だけはたくさん浸ろうと思います。

ゼロというかマイナスのスタート

去年、私はあんなにもなりたくてなった大好きだったソーシャルワーカーを辞めて、カメラの道へ踏み出しました。正直なことを言ってしまえば、カメラの知識はゼロでした。右も左もわからない世界で、頼れる人は誰もいない。持っているものは何もないし、毎月の奨学金の返済には追われるし、それはゼロというかむしろ、マイナスからのスタートでした。人脈もなければ、スキルも経験値もない。さらにいうなら、お金もない(奨学金という名の借金はある、しかも一人暮らし)。社会人経験もたった1年未満。23歳という若さと、どうにかご飯を食べなくてはいけないという焦りと、自分の人生を歩みたい、そんな向上心だけを持って、私は新しい日々に進みました。今思い返せば、馬鹿だったと思います。本当に馬鹿だったと。それでもあの時の選択が間違っていたと後悔したことは一度もないので、私はやはり馬鹿でよかったと心底思います。

無いなら、作ればいい

先程いったように、わたしは何も持っていませんでした。何もありませんでした。本当に。笑い飛ばせるくらいに。だからこそこんな考えに至ったのかもしれませんが、『無いのなら、作ればいい』と思ったのです。初めから何も持っていない私は、失うものが何もなかったので、恥もプライドも、なんにもありませんでした。まずは、私がどこを向いて何をしたいのか人に知ってもらわなければ、人の紹介を得ることも、知識を得る手段の見つけ方も方法も何も分からずじまいだと思い、Facebookにいろいろ書いてみたわけです。そしたら、なんと友人リストの中に職業カメラマンとして生きている方がいました。これはチャンスだと思って、当たって砕けろ作戦で、御宅訪問に土下座スタイルで教えを請いに行きました。そしたら、怒られるし、応援されるし、笑い飛ばされるしで、色んなことを教えてくれました。かといって右も左も分からないやつをアシスタントとして雇ってくれることもなく、私のピンチは何も変わらなかったわけです。

よし、東京へいこう。

ピンチはピンチなままで、お金がまったくないのにもかかわらず、私はとりあえず東京へ行きました。職業カメラマンの大先輩が、カメラを学ぶのはどこでもいいよ。ニューヨークでもいいしさ。自分から学ぶ姿勢があれば、大丈夫。若いから、たくさん失敗しろと言われたので、私はとりあえず東京へ行きました。東京へ行けば何か出会いがあったり、なにかしらの知識が得られるかも。そんな想いで、友人の家に数日間居候させてもらいながら、私は東京へ行き写真展を巡りました。そして、SNSで繋がった人たちに会いまくりました(正直な話、なにも勉強にはなっていない)。それでも、東京に友達ができたという事実はとても大きかったです。

チャンスは結局ピンチ

たまたまインターネットで調べ物をしていたら、とある写真スタジオのカメラマンの募集の文字を発見しました。これはチャンスだ。そう思ってすぐに面接をし、合格して私は札幌でスタジオカメラマンのアシスタントとなるのです。ここから、私のカメラマン人生がスタートと思うのですが、私はそのスタジオを3カ月という早さでやめます。自分の想像をはるかに超えるハードワークと過酷さで、私は体調を崩しました。その後、しばらく私はニートになります。

いつでもピンチはピンチ

ニートになって毎日がとてもつまらなかったです。写真を撮りたくないとすら思いました。すべてが停滞していました。そんな時です。学生時代にお世話になったカフェのオーナーから連絡がきて、『きみにとってもらった写真、ガイドブックに載るから。使わせてもらったからね』と言われるわけです。喜びは頂点。お金の無さは、底辺。そのときの気持ちはピンチでなくても現実、お金はピンチでした。毎日もやし生活でした。それでもお礼を言いに、カフェに行くと、イベントの時にスタッフとして働かないかい?と言うのです。これは、お金をゲットするチャンス!!!と思った私はイベントのときに人手として呼んでもらえるスタッフへとニートから昇格しました。私は、二度も珈琲に救われたわけです(珈琲に救われた話はまた今度します)。そしてそのガイドブックの写真が功を呼びSNSで、編集社から業務委託という形で、カメラマンの仕事をもらうわけです。そして、編集社の皆さんには偽りなく、全然写真のことがわからなくて、お金なんてもらえるほどの実力はないという話をするわけです。そしたら、その真っ直ぐさがいいと言ってもらえ、うちで失敗をしながらでいいから写真を撮ってくれと言われ、カメラマンの仕事をゲットしていくわけです。私が、自分の力でここまできたのではなく、運しかないラッキーガールということがよくわかりますよね。

カメラマンという責任

そうして、私は色んな会社から業務委託という形で仕事をもらえるようになっていきました。もうここまでくると、写真よくわかりませんとか言えないわけです(アシスタント経験もたいしてないし、良い機材も持ってないのに)。少なくとも、クライアントの前では。必死に必死に次の現場に必要な知識を死にものぐるいで勉強するわけですよ。無いものは作ったり、頑張ってレンタルしたり、常に赤字。もうマイナスもいいところ。はじめての個人事業ということもあって、請求書の作り方はわからないし、なにをすればいいのかもわからないしで、個人事業とかいうカッコいいネーミングだけで、本当によくわからないまま、どうにか生きていたわけです。それでも、カメラマンとしてお金をもらう限りどんなに小さな金額でも、そこには責任が伴い、私は毎回吐き気と戦いながら生きていました。とてもじゃないけど、今思い出しても息をするだけで必死とはまさにこのこと。

肩書きについて

そんなときに、編集社からまた嬉しい声がかかるわけです。人手が足りないんだ。うちの会社。カメラだけでなくて、文章書いてみない?きみならできるよ。という甘い誘惑に負け、私は短期間、編集社で働くことになります。フォトライターという肩書きを背負って。そうやって私は気がつけば、フォトライターという世界へ足を運んで行きました。でもフォトライターとして書いた記事は自分が書いたことを公表できない記事ばかりだったので、フォトライターとして本当に仕事をしているの?と聞かれたら、見せられるものがありません。それに、時にはカフェのイベントスタッフとして、珈琲を淹れているわけです。そして個人でカメラマンの仕事を受けてはいるし、時にはソーシャルワーカーとして相談もされたり、もはや肩書きがわからなくなってくるわけです。名刺に書く肩書きすらもうどうしていいかわからないわけです。そうやって去年は必死に必死に生きました。

今年になって

今年になってからは、少し周りをみる余裕を持てるようになり少しだけですが、自分の人生とまたしっかり向き合えるようになったなあと思っています。今年の話は、随分と長くなってしまったのでまた今度にしようと思います。最後まで読んでくれた方、どうもありがとうございました!

#コラム #仕事 #過去


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