散歩の天才

死ぬまでは生きていなければならない、ということが、時々とても大変なものに感じられる。この体を維持して、そしてその行動の多くには感情が伴うわけで、それをずっと続けるんですか、死ぬまでずっと……?

生きてみれば意外とあっという間なのかもしれないけど、今はそれが、道のりの遠い不穏なものに思える。その間中、ずっと色んな感情に付きまとわれるんだろうか。解脱でもしない限りはそうだろう。そしてその中には、面白くない感情もたくさんあるだろう……と考えると、人生はどうしたって、何かを成し遂げるためには存在していないように思える。すべてのことが死ぬまでのプロセスであって、「あなたはこの使命を遂行しました、生きている意味はこれでおしまいです!」という、わかりやすい「アガリ」はどこにもないらしい。

それが良いことなのか、苦しいことなのかは知らない。

小林秀雄によれば、モーツァルトは天才だった。散歩の天才。目的地に行くことを目的として生きるのではなく、あっちこっちに寄り道して、ふらふらと過程を楽しむ。そういうタイプの天才。

酒と女が好きで、音楽の才能に深く恵まれながら、書く歌詞のレベルはとても低かったモーツァルト。散歩の天才、という言葉がひっかかる。何かを得るためではなく、そこに至る道を味わう人。なんなら、目的地なんてどうでもいいと思っている人。彼の関心は、偉大な作曲家になることでも、最高の作品を完成させることでもなく、作曲の最中に一番の楽しみを持っていて、残りのことはどうでもよかったんだろう。死ぬことへ向かって生きることも、作曲を完成させることも、彼にとって大して違いはなかったのかもしれない。

道は歩くためにあるのであって、目的地への道のりをショートカットするためにあるのではない。そんな風に思わせてくれる。人が生きるのも短い散歩に似ていて、寄り道を楽しめばそれで事足りるのであって、どこかに行き着く必要はないのだろう。行き着くとしたら、死だけだ。

なんだか、みんな少し「何かする」「何かを遂行する」ことに意味を持たせ過ぎじゃないか、と思う。感情よりも目に見える行動や達成に意味があると思っている人もいるけど、感情がなかったらいかなる行動も意味を失う。だって人が欲しがっているのは、そもそもその行動を通して得られる(であろう)感情だからだ。だから、感情を軸に人生を歩くのが一番いいような気もするけど、と思っている。何かを成し遂げることは確かに、素晴らしいことだけれど、それだって散歩の途中の出来事に過ぎない。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。